誕生日

瞼を持ち上げ、ぼんやりと眺めるは見慣れぬ天井。
襖の向こうに感じる人の気配。足音。子どもの笑い声。
此れは俺の生活ではないと感じた途端、横の襖が開いた。
「お目覚めですか?」
耳に届いた涼やかな声に、寝ぼけていた意識が一気に覚醒する。
間違いなく、此処は己の家だ。
「今何時だ」
体を起こしつつ、億劫気に髪をかき上げる。
「九時を少し回ったところです」
どうりで賑やかなはずだ。
何時もに比べれば随分と寝過ごしたものだと一つ息を吐く。

年の瀬であろうと仕事が減ることはない。
寧ろ一年分の雑務の残りが全て押し寄せてくるため、常よりも慌しい。
机の上に積み重なった書類に目を通し終えた頃には、既に十一時を大きく過ぎていたか。
其の日は大晦日。当然翌日は元日。
よって何時ものように上部より貸し与えられている宿の一室ではなく、少し時刻の遅いのを気にしつつも自宅へと帰ったのだ。
半分以上居候と化している男も、年末年始は己の弟子の住まう神谷道場に身を寄せると言っていたので問題はないだろう。
何故自分が、無理矢理居座っている男などを気に掛けているのか、腹立たしいことこの上ないが。
ともかく、自宅に着いたのは十二時過ぎ。
にも関わらず、何時もと変わらぬ笑みで迎えてくれた細君に感謝しながら床に入った。

「直ぐにお湯の用意をしますね」
昨夜へと思いを馳せていた間に、其の視線の先で着替えの用意をしていた時尾が立ち上がり、微笑を残して部屋を出て行った。
襖が開いた時に、向こうで上がる子どもの声が大きくなる。
二人の子である勉と、少し前に京都より連れ帰ってきた栄次のものであろう。
しかし此れだけ賑やかにも関わらず、確りと熟睡していた己に失笑せざるを得ない。
此処数日の寝不足と疲れがたたったのか、久し振りに家に帰ったことで安堵したのか。
どちらにしてもなかなか情けない。
辺りを見回せば、机の上には煙草と燐寸、それと灰皿。
手の届く範囲にある其れらに手を伸ばす。
小さな箱から煙草を一本抜き出し、慣れた手つきで燐寸を擦って、咥えた其れの先端に火を灯す。
大きく吸い込み肺を一巡させ、細く紫煙を燻らせる。
「雪、か」
つと障子に目をやれば白い薄紙に映る影。
片膝を立て、寒いはずだと口中で呟く。

指に挟んだ煙草を時折口許へと運んで、其の度に紫煙を立ち昇らせる。
障子に映る、上より落ちて来る影を眺めるうち、脇の襖が再び開いた。
「あら。まだ寝ぼけていらっしゃいますの?」
ぼうと一点を見詰めるさまに、さも可笑しそうにくすくすと口許に手を添えた時尾が笑う。
「雪が降っているのか」
「えぇ。先ほど二人とも、喜んで外へ出て行きましたわ」
言われてみれば二人の声が少し遠ざかっているか。
呑んでいた煙草を灰皿に押し付けて火を消し、俺は湯を使うべく腰を上げた。

「今日は元日ですけども、貴方様の誕生日でもありますのね」
顔を洗い終えた俺の着付けを手伝うため、正面で膝をついていた時尾がふと思い出したように顔を上げた。
誕生日というものが出来たのは何年前のことだったか。
其れまでは新年を迎えると同時に誰もが歳を重ねるものだった。
尤も、元より元日に生まれた人間としては、何ら変わるところもないのだが。
「フン、別に誕生日など大したものではないだろう」
歳を一つ重ねたとて、今までと変わることなどない。
人というのは日々変わっていくものなのだから。
「あたくしはそうは思いませんけど」
帯を締めながら時尾が反論する。
「確かに人とは日々成長するものです」
まるで此方の考えを読んだかのような科白。
女というのは聡いものだ。
それに時尾は俺のことをよく理解(わか)っている。
一度玄関の方に目を向けたのは、其の言葉と外にいる子どもに重ねてのことか。
「しかし一つ歳を重ねるということは、貴方様との歳を重ねたということでもありますから」
だから誕生日とは特別なのだと。
何の躊躇いもなく嬉しそうに見上げてくる視線。

控えめな朱の引かれた柔らかな口唇から紡がれる言葉に息を呑む。
言葉を失い、黙り込んだのを見てさも楽しそうに笑う。
厭味など微塵も感じさせぬ、無邪気な笑い声。
憮然とした面持ちを見てもう一度笑う。
「ですから誕生日というのは大切だと思うのです」
どうです。貴方様は違いますか…?
裾を正しながら見上げてる視線にそう問いかけられて返事に窮する。
答えを探すように色素の薄い琥珀の瞳で、全て包み込むかのような黒の瞳を見た。
考えるまでもなく答えなど決まってはいたのだが。
いつもこうして一本取られる。

「そういう、考え方もあるな」
苦虫を噛み潰したような表情に、何処までも強情な態度。
我ながら子ども染みていると思うその姿に、時尾が肩を揺らした。
「―――――二人を呼んで来い。それと朝餉の用意を」
暫し黙り込んだ後に呟いた言葉。
諦めた声音で、其れに次ぐのは滅多に浮かべぬ笑み。
少しの間珍しそうにその表情を見詰め、しかし直ぐに時尾は微笑と共に頷いた。

「るろ剣」の斎藤さん。時尾は奥さん。
時尾さんのイメージはこんな感じ。
居候は師匠。