夜の鶴

「小十郎ー」

酒瓶を片手に、臣下の部屋の襖を遠慮なく開けた政宗はそこにいた先客の姿に目を丸くした。

「綱元」

そこにいたのは、部屋の主である小十郎とは血の繋がらぬ兄弟である鬼庭綱元。
政宗の幼い頃からの近習の一人でもある。

「政宗様」
「殿」

同時に声をかけられた政宗はそのまま室内へと入る。

「それでは私は失礼します」
「あぁ、気にすんな。酒を飲みに来ただけだ。お前が気にしないなら俺も混ぜてくれ」

部屋を辞そうとした綱元にひらひら手を振った政宗が適当な場所に腰を下ろした。
小十郎と綱元の前には飲み掛けの酒がある。そこに混ぜてくれと頼めば綱元が小さく頭を下げた。

「殿がお許し下さるのであれば」
「綱元は小十郎より堅いからな」

おかしそうに笑う間に小十郎は政宗の盃を用意している。

「政宗様」
「Thanks」

酒瓶を手に名前を呼べば、礼を告げながら政宗が盃を手に取る。そこに注がれた酒を政宗が一気に飲み干した。

「しかしお前ら二人が一緒にいるとは珍しいじゃねぇか」

血の繋がらぬ兄弟であり、伊達三傑と呼ばれるうちの二人でもあるが、なかなかこの二人が一緒にいるところを見ることは少ない。
決して仲が悪いわけではないのだが。

「…」
「An?何で二人揃って黙り込むんだよ?」
「いえ、別に…」
「何だよ、綱元。気になる言い方をしやがって」

言葉を濁す様子に政宗が眉を寄せる。差し出された盃に再び酒を注ぎながら小十郎が口を開いた。

「それぞれに、手のかかる子供の面倒を見るのが忙しいもので」
「小十郎殿」

諫めるように綱元が名を呼ぶも、小十郎は気にしたふうもなく聞き流す。が、政宗が聞き流すはずもない。

「子供?」
「さ、綱元殿もどうぞ」

聞き咎め、繰り返す政宗を見事に無視する。促され、盃を差し出す綱元が小十郎へと咎める眼差しを向ける。
無視された政宗がむっとして己の右目を睨み付けた。

「それぞれって…おい」
「どなたのことかは分かっていらっしゃるでしょう?」

じろりと睨まれた小十郎は、しかし顔色一つ変えるでもなく当然のように答えた。
その返答に政宗の眼差しがますますきついものへと変わる。

「俺のことかよ」
「他に子供などおらぬでしょう」
「いつまでもガキ扱いすんな」
「行儀が悪うございますぞ、政宗様」

むすっとした政宗が片足を伸ばし、斜め前に座る小十郎を蹴り飛ばした。
途端、小十郎の隣に座る綱元から叱責が飛んだ。
日常茶飯事の行為であるがその日常を知らず、小十郎以上に口煩い綱元にとっては注意すべき事柄だったようだ。
思わぬ叱責に政宗が伸ばした足を反射的に引っ込める。
その驚いた様子がおかしかったのか、小十郎の表情が笑いを堪えるように歪んだ。
ここで笑えば、恐らくは何を笑っているのだと小十郎までもを叱り付けるに違いない。
鬼庭綱元と喜多姉弟はこの伊達軍で唯一政宗と小十郎の二人ともを叱ることの出来る人物である。


綱元に叱られ、それに笑いを堪える小十郎とに気まずくなった政宗は話を戻した。

「…で、だ。小十郎は俺についてて…綱元はじゃあ成実か?」

態とらしい政宗の咳払いにも表情一つ変えず、綱元は大きく頷く。

「左様。伊達家は手のかかる方々ばかりでいられる」
「俺はあいつほど落ち着きがなくはねぇぜ」
「小十郎からすれば大差ありませぬ」

重々しく告げられる言葉に政宗が小さく呟くも、その言葉へと小十郎が更に呟きを返した。
政宗がやはり恨めしげに小十郎を睨む。
伊達家に落ち着きがないというのは血筋だろうと政宗は思っている。
あの気性のおとなしい父輝宗でさえも、若い頃は傅役の手を煩わせていたということは、その頃より伊達家に仕えている左月斎に聞いたことがある。
更には伯父達に至っても歳を考えれば血気盛んなほどだ。これが血筋でなければ何だと言うのか。

「留守や石川の伯父貴でさえあれだぜ?俺や成実は若いんだから仕方ねぇって。understand?」
「全く…どこでこうなってしまわれたのか…」

日常会話の中で自然に異国語を使い、反省する素振りを微塵も見せぬ政宗に綱元が溜め息を落とす。
それと共に、自らの方へと向けられた視線に気付いた小十郎が顔を背けるかのように盃を呷った。
確かに政宗を育てたのは紛れもなく小十郎である。
が、性格の方はともかくとしても、異国語など教えた覚えはない。そればかりは完全な濡れ衣というものだ。


そんな他愛無いことを語りながら酒を飲むこと二刻程。
小十郎や綱元の諌めの言葉を気にすることなく、酒を飲み進めていた政宗の目がとろんとし始める。
決して酒に弱いわけではない政宗であるがここ数日の疲労も相俟ってか、盃を手にしたまま既にうとうとと舟をこぎそうにすらなっていた。

「ですからそのような飲み方はしてはならぬと言ったではありませぬか」
「飲みたかったんだよ」

こんなときでもまず諌めの言葉を口にする綱元とは裏腹に、今にも寝そうな政宗の手から盃を取った小十郎が心配そうに顔を覗き込む。

「政宗様、一人で自室まで戻れますか?」
「Ah~…No…Impossibility…。ここでいい…」

小十郎の肩に頭を乗せながら政宗が小さく呟く。
こんなところでは風邪を引くと。
小十郎が口を開くより早く、凭れかかっていた肩からずり落とされた政宗の頭が、胡坐を組んだ小十郎の膝へと落ちた。

「ま、政宗様っ」

二人きりならともかく、この場には綱元がいる。
慌てて政宗の体を離そうとした小十郎は、しかし既に政宗の両腕が己の腰にしっかりと抱きついていることに気付いた。
おまけに聞こえてくるのは安らかな寝息。
腰に巻きついた腕の力は本当に寝ているのかと疑いたくなるほど強く、そう簡単には外れてくれそうもない。
このままでは小十郎も身動きが取れない。
諦めたように溜息を落とした小十郎の耳に、低く噛み殺した笑い声が飛び込んできた。
顔を上げれば、そこには小さく肩を揺らす義兄の姿。

「綱元殿…」

恨めしげに名を呼べば、くつくつ肩を震わせながら綱元が首を振った。

「いや、すまぬ…そうしているとまるで親子のようだと思ってな…」
「…せめて兄弟と言ってください」

ぼそりと呟かれた不機嫌そうな声音にも動じることなく、綱元が小十郎の膝の上で眠る主をそっと見つめる。

「この安心しきった顔は子どもそのものではないか。…お前の前では、殿もこのように安心されるのだな」

告げられた言葉に小十郎も視線を落とす。
19歳という若さにして奥州の王である政宗は随分と大人びている。
親しい者の間ではどこか歳相応の表情を覗かせもするが、それすら演じているのではないかと思えるほどに普段の政宗は冷静だ。
そうならざるを得なかったことは間違いではないが、それでも元服前の幼い政宗を知る者としては何とも痛ましい。
しかし政宗は、傅役である小十郎の前では歳相応どころか幼さすら感じさせる表情を見せることがよくある。
それは当然小十郎しか知らぬことなのであるが…今、こうして綱元に知れてしまったことに僅かな嫉妬を覚える。
幼子のように安心しきった無垢な寝顔。
例え城の中であろうと常に警戒し、僅かな気配でもすぐに目を覚ますほどに政宗の眠りは浅い。
それは幼い頃より、家中の者に命を狙われていたがための悲しい習性。
敵に囲まれて生きてきた政宗だからこそ、その大人びた態度にも磨きがかかるのであろう。
そんな政宗が唯一何の警戒もなく、真に熟睡出来る場所。
政宗がまだ梵天丸であった頃から常に傍で守り慈しんできた小十郎だからこそ、政宗も絶対の信頼を置くことが出来る。
その信頼がありありと浮かぶ寝顔を見つめながら小十郎はその柔らかい髪を梳いてやる。
立ち上がった綱元が押入れを開き、そこから一枚の掛布を取り出し、小十郎へとしがみつく政宗の体にそっとかけた。

「小十郎。殿の絶対の信頼を裏切るでないぞ」
「無論。この小十郎、政宗様を裏切ることなど決して致しませぬ」
「…二人とも、いい顔をしている」

己に向けられる、偽りない真剣な眼差しにふっと小さく笑んだ綱元は襖のほうへと足を進めた。

「殿の安眠を邪魔するわけにはいくまい。私は部屋に帰るとしよう」
「は。おやすみなさいませ、綱元殿」
「あぁ、また明日にな」

静かに綱元が部屋を出て行き、室内に静寂が下りる。ただ微かに響くのは安らかな寝息。


物心がつく前から家中で命を狙われ、知らぬ間に身についた保身。
手負いの獣のように気配に敏感で、今思えばあの頃から眠りは決して深くはなかったはず。
こうして己の傍で、心底より安堵して眠ってくれるようになったのはいつの頃からだったか。
家中に敵などいなくなった今でも政宗の眠りは浅く、酷く気配に敏感なまま。
部屋で眠っていても、まるで戦場にいるかのように微かな物音一つで目を覚ます。
部屋の傍に近付くものがあれば素早く意識を浮上させる。それは昔から何一つ変わらない。
昔と違うのはただ一つ。小十郎の存在。
小十郎が傍にいるときだけ、政宗は深い眠りに就く。
多少の物音では呼吸の一つも乱れない。そして浅い眠りのときでも、小十郎の気配にだけは反応を示さない。
政宗に言わせると、不思議なまでに小十郎の気配だけは通り抜けるのだという。
お前だけは網の目を上手く通り抜けるのだと、本人も不思議そうに呟いていた。

「これほど嬉しいことがありましょうか」

小さく呟くその声にも、膝の上で眠る主は身動ぎ一つしない。
それはこの上ない信頼。自分だけは特別なのだと自惚れてもいいだろうか。

「…お慕いしております、政宗様…」

睦言のように、甘く真摯に。
穏やかに眠る主へと囁きかけた小十郎は、その頭を愛しげに撫でた。

書き終えてみたら綱元が手厳しい人になっていた不思議。
筆頭は凄く気配に敏感だといい。
で、唯一気を抜くことが出来るのが小十郎の傍だけだと尚良し。