戦場の秘め事

敵軍が撤退していく。
勝敗は決した。
これ以上の追撃は無用と頭の片隅で声がする。
それは紛れもない、自分自身の声。
逃げる兵を追う必要はどこにもない。
ただ…血がたぎる。熱が収まらない。
「…Ha!逃がすかよ」
刀をきつく握り直す。
無駄な殺生はすべきではないと分かっていながら、口許に押さえ切れぬ笑みを浮かべた政宗が馬の腹を蹴りつけた。

切っ先を流れた血が赤い水溜まりへと滴り落ちる。
少し粘る水音。
周囲には屍のみ。
五体満足のものは少ない。
暫くその場に佇んでいた政宗がゆっくり背後を振り返った。
「…で、いつまで眺めていれば気が済むんだ?」
戦が始まった頃からずっと感じていた気配。
戦が終わった今でも、それは消えることなく政宗に付き纏っている。
振り返った先に立つのは一人の少年。
予想していた者とは異なる、しかし見知った姿に政宗の左目が細められた。
「殿…」
それは戦場に出る直前に言葉を交わした兵。
政宗よりもまだ若い彼は、これが初陣だと言った。
無理はするなと告げた政宗に驚きながらもはにかんだ少年は…政宗の前で腹を突かれて死んだ。
それが戦場というものだ。
戦場では年齢など関係ない。
初陣で死ぬ者も少なくはない。

目の前に立つ少年の腹から流れる大量の血がその具足を赤黒く染め上げている。
政宗を見つめるのは虚ろな眼差し。
濁った死者の眼。
少年が言葉を紡ごうと再び口を開いた。
が、彼が言葉を発するより早く、政宗が手にしたままの刀を一閃させた。
狙い違わず首を刎ねたはずだが手応えはない。
跳ぶはずだった首の代わりに何か、黒い影が後ろへと跳んだ。
先までいたはずの少年は、既に影も形もない。
「相変わらず怖い御方だねぇ」
「…何の用だ、素破。人を付け回した挙句に趣味の悪いもんを見せやがって」
黒い影がのんびりした口調で呟きながら立ち上がった。
鮮やかな橙の髪に緑の忍装束。
態とらしい笑みを浮かべるのは真田の忍頭。
政宗が刀を構える。
「なぁに、ちょっと観察させてもらってただけだよ」
「死人を前に、どんな反応を返すか?」
「あぁ、そっちは座興」
さらりと返された言葉と同時に政宗が一息で間合いを詰め、佐助目掛けて刀を振り下ろした。
それを受け止めたのは巨大な手裏剣。
「熱くなんないでよ、竜の旦那」
揶揄うように囁かれる声。
背後に風の切る音を聞いた政宗が咄嗟に競り合う刃を弾き、横へと跳んだ。
寸前まで政宗の背があった空間を裂いて、佐助の手元へと二つ目の巨大な手裏剣が戻った。
「流石だねぇ。…で、あれが俺だって何で気付いたの?」
両手に持つ手裏剣をくるくると回しながら佐助が問い掛ける。
その顔には余裕の笑み。
「An?死者は生き返らねぇ。それだけだ」
再び政宗が刀を構え直す。
その隻眼に油断の色はない。
「亡霊は斬り捨てる、って?」
「ずっとあった、てめぇの気配が消えると同時に現れるなんて偶然があるか」
「そ?案外有り得るかもよ?」
楽しげに笑う忍の真意は知れない。
風が吹き、血腥い匂いが鼻につく。
地獄絵図のような風景の中、佐助がそれを為した竜へと問いを投げ掛ける。
「ねぇ。敵が撤退した時、何で追ったの?追いかけてまで殺す必要はなかったと思うけど?」
兜の下、政宗が微かに表情を動かした。
佐助の口許には笑みが浮かび続けている。

そう、別に追う必要はなかった。
既に大将の首級は上げていたのだから、残党兵は逃がしても構わなかったのだ。
無用な殺生をする必要はどこにもなかった。
必要のない殺生は外道だ。
それを知っていて尚、政宗は生きるために逃げようとする兵を斬った。
その結果がこの光景。
凄惨を極める地獄絵図。
屍につく傷は、ほとんどが背後からのものだ。
「…殺したかったから。それ以上の理由が必要か?」
感情のない声。
佐助が声を上げずに笑う。
「とんだ殿様もいたもんだね。それじゃあ魔王の旦那と変わんないよ」
「魔王?違うね。あれはただのおっさんだ。そして俺もただのガキに過ぎない」
「…アンタ、時々イかれてるよね」
目を細める佐助を見て、今まで表情のなかった政宗の顔に漸く笑みが浮かんだ。
「それが戦ってもんだ、素破」
突如佐助が苦無を放った。
政宗がそれを払い落とす頃には、既に佐助の姿はない。
慌てることなく手首を捻りつつ、胴打ちの要領で背後へと刀を打ち付けると刃の噛み合う金属音。
政宗の右後ろに立つその姿は、右目のない政宗自身には首を捻っても確認出来ない。
「死角を狙うなんざいい性格してるじゃねぇか」
「俺は忍だからね」
にやりと笑えば、悪びれることのない飄々とした返事。
鎬を滑らせながら刀を立て、背負う形になったそれを頭上から振り下ろす。
も、やはりそこに忍の姿は既にない。
ただ、微かな殺気だけを背後に感じる。
「…相変わらず嫌な動きをしやがる」
「そういう竜の旦那こそ、可愛げがないくらい反応がいいね」
佐助の首筋に添えられているのは銀の刃。
その懐剣を左手に握る政宗の喉には黒い苦無の切っ先。
「大体アンタ、忍でもないのにどれだけ刃物を持ち歩いてんのさ。物騒な御方だよ」
互いにあと僅か、力を込めればその命を奪えるといったところで動きが止まる。
背後から政宗の喉へ苦無を突き付けた佐助が、どこか呆れたように呟きを落とした。
背後に立つ佐助の首筋に懐剣の刃を添えた政宗がおかしそうに笑う。
「竜の武器は6本の爪だけじゃねぇってことだ、you see?」
「やれやれ」
左向きに、背後の佐助を振り返った政宗の笑みに忍が小さく嘆息した。
そして顔が近付き、互いの唇が微かに触れ合う。
互いに握る刃が、それぞれの皮膚を浅く裂く。
「こんな体たらくじゃ真田の旦那に叱られそうだ」
唇が離れ、それでも息がかかるほど近くで佐助が情けない表情を見せた。
それが作り物であることを知りながら政宗がくつくつと喉を鳴らす。
「あいつに捨てられたら俺のとこに来いよ。黒脛巾とは別に、俺が高給で雇ってやる」
「冗談。竜の旦那の忍使いの荒さはお館様や真田の旦那の比じゃなさそうだ」
「よく分かってるじゃねぇか。土産は山猿の首でいいぜ」
苦無を引きながらのおどけた台詞に、政宗も懐剣を引きながら相槌を打つ。
それを懐へとしまい込みながら喉に触れると、ひりつく痛みを伴って指先に血がついた。
「…小十郎が煩そうだな…」
「あははー、たっぷり怒られればいいじゃん」
「お前にやられたって言ってやる」
皮膚一枚であれば傷は決して深くない。
しかし首は生き物の急所。
それが例えどれほど浅いものであったとしても、首に傷を負ったというその一点が何よりの問題になる。
首や手首、そういう箇所は掠り傷であっても小十郎が煩い。
喉元の傷を擦りながら小さくぼやくと、同じように首筋を擦っていた佐助の顔が歪んだ。
「げっ、勘弁!アンタも怖いけど右目の旦那も怖いんだって!」
こと、政宗が関われば。
声にはされなかった、続くべき言葉を聞いた気がして政宗が意地悪く笑む。
「次にあいつに会う時は覚悟しろよ?」
そう言い放った直後。
まるでどこかで話を聞いていたのではと思える間合いで政宗の名を呼ぶ声が聞こえた。
「Oh…nice timing…」
流石に名を呼ばれた本人も驚いたらしく、唖然とした様子で異国語を呟いた。
「んじゃ俺様はさっさと退散するわ。じゃね」
常より幾分焦った口調でそう告げた佐助は、政宗が返事をする前に宣言通り、さっさと姿を消した。
入れ替わりに現れるのは、竜の右目と呼ばれる男。