芽生え

「は?」

主君の言葉に、不覚にも間の抜けた声を上げてしまった。
大事な話があると言われた。
色小姓ながらに頭の切れる小十郎は、時折寝物語のように政に関する話を聞かされ、考えを述べさせられることがあった。
だから今回もきっとその類だろうと思っていたのだが…告げられた言葉は、小十郎の予想を裏切るものであった。

「梵天丸の傅役になって欲しい」

相手はそれなりに尊敬する主君であり、この城の主であったが…ぼけたか、と心中で呟いてしまった。
確かに己の義姉は、その梵天丸の乳母である。そのせいか彼と会う機会は時折ある。
しかし正直なところ、小十郎は己より一回り下の少年が苦手であった。
引っ込み思案で内気。いつも乳母である喜多か、父親である輝宗の後ろに隠れている。
碌に外に出ることもなく、人と話す姿も見たことがない。
事情は知っているが、少し度が過ぎているような気がする。
彼に多大な期待を寄せている主には悪いが、あの少年が跡を継ぐのには不安がある。
まあ、そうなれば別の国へ行けばいいだけなのだが。何せ今は戦国乱世。臣下が主を選ぶ時代だ。


「ちょっと待って下さい、輝宗様。何故私なのですか。私は殿の小姓です。傅役ならばもっと適任者がおられるでしょう」

しかしそれはそれ。
いざとなれば出奔するにしても、だからと言って今、少年の傅役になってもいいというわけではない。
真顔で反論すると、正面に座る輝宗はおかしそうに笑った。

「お前があれをあまり好いておらぬのは知っておるがな」
「いえ、決してそのようなことは…」

ひやりと心の臓が冷えるも、それをおくびにも出さず頭を下げる。が、主はそれを気にも止めず笑う。

「何、気にするな。城の者があれを、腫れ物に触るかのように扱っているのは知っておる」

はあ、と頷くわけにもいかず。小十郎は頭を下げたまま続く言葉を待つ。

「しかしあれは儂の跡継ぎだ。もう8つにもなる。あのままでは困る」

すっと頬を撫でる大きな手に、畳へと両手をついたまま顔だけを上げる。

「だからこそ、信頼出来る者に傅役になってもらいたい。お前は色小姓にしておくのが勿体ない程武術に長けておるし、頭も切れる」
「勿体なきお言葉…」

褒められるのは純粋に嬉しい。暗に己を信頼してると言われることも感動である。信用ではない、信頼なのだ。

「幸いお前の身内が梵天の乳母をしておる。あれもまだ懐きやすいであろう」
「…私は子どもに恐れられる顔だと自覚しておりますが」

無愛想で感情を面に出すこともほとんどない。まず取っ付きにくいだろう。

「綺麗な顔をしてはいるのだがな」

目の方は大丈夫でしょうか。
心の中で主の目を心配する。しかしぐだぐだ言っても仕方あるまい。これは主君の命に他ならないのだから。
小十郎は頬に触れたままの主君の掌にするりと擦り寄ってから、もう一度深く頭を下げた。

「承知致しました。梵天丸様の傅役、喜んでご下命承ります」


目の前にいるのは己と随分と年の離れた義姉、喜多。
その袖を掴みながら後ろに隠れ、恐る恐るとばかりにこちらを覗いて来るのは次期当主であり、本日から己の主となった少年、梵天丸。

「まさか貴方が梵天丸様の傅役になるなんてねぇ…」
「俺とて驚きです」

信じられないとばかりに首を振る義姉に無表情のまま答えてから、その後ろに立つ少年へと目を向ける。
目が合った少年はびくりと体を震わせる。その瞳に浮かぶのは紛れもない恐怖。
そら見ろ。俺と目の合ったガキは大抵こんな反応をしやがる。
袖を掴む少年が震えたのに気付いたのか、喜多が彼を振り返り、安心させるように微笑みながら頭を撫でる。

「ご安心ください、梵天丸さま。これはこの喜多めの弟にございます。無愛想で無口ではございますが、紛れもなく梵天丸さまの味方です」

味方、と言われればそうなるのか。
少年の母である義姫は、彼の弟である小次郎を次期当主にと望んでいる。
現当主である輝宗は梵天丸を跡継ぎにしたがっているが、少年を慕う者は少ない。自然と城内では小次郎を次期当主にとの声が強くなっている。
そんな中、主君の命とはいえ梵天丸の傅役となることは、すなわち彼の味方と見なされる。
おそらく小十郎を傅役にと言った輝宗の真意はそこにあるのだろう。
家中ですら命を狙われることのある、この少年を守ること。
そんなことを考える小十郎の目の前で喜多はそっと己の袖から少年の手を外した。

「喜多めは御用がありますので、失礼します。後のことは何なりとこれへ」

縋るような眼差しの少年は、しかし乳母の言葉に素直に頷いた。
もう一度優しく微笑んだ喜多は少年の頭を愛しげに撫で。
小十郎の傍を通り過ぎざま「泣かせたら承知しませんよ」と耳元に囁きかけてくれた。
義姉は猫を被っている。あれで本性はなかなか恐ろしいのだ。
凄むような囁きを残して部屋を去って行った喜多の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、小十郎はその場へと正座した。
そして不安げに立ち尽くしたままの少年へと頭を下げる。

「本日より梵天丸さまの傅役を承りました、片倉小十郎景綱です。どうぞ小十郎とお呼びください」

頭上からの返事は、ない。
ゆっくり体を起こすと、おどおどとした少年の姿が目に入った。
前髪は長く目を隠している。何とも鬱陶しいことこの上ないが、それは右目を隠すためのものだと知っている。
4年前にかかった疱瘡。それが少年の全てを狂わせた。
奇跡的に一命を取りとめた少年は、しかしその代償として右の目から光を失った。
それもただ失明したわけではなく、その目玉は眼窩に巣食う別の生き物のように、本来納まるべき場所から飛び出しているという。
いつも前髪で隠されたその右目を、小十郎自身は見たことがない。
しかしその化け物じみた容貌に、実の母である義姫は耐えることが出来なかったらしい。
醜いと疎み、罵られ、母親からの愛情の一切を失った。
4歳の少年に、それがどれ程の傷を与えたかを推し量ることなど出来はしない。
それは確かに辛いことであろう。


だが、と小十郎は思う。
あれから4年、少年は何も変わっていない。
おどおどとし、人の後ろに隠れているだけだ。
それが小十郎には我慢ならない。
彼の容貌が化け物じみてようとどうでもいい。政や戦は顔でするものではない。
周りの者はその容貌ゆえ蔑み、腫れ物に触れるかの如く接しているらしいが小十郎は違う。
その性根が気に食わない。目玉の一つくらい何だというのだ。
このような態度の方が余程に蔑みたくなる。
元々小十郎はそのような男だ。


長く伸びた前髪の隙間から微かに覗く左目。そこに浮かぶ、確かな怯えの色。
すっと姿勢を正した小十郎は、膝の上に両手を乗せてまっすぐに少年のその左目を見据える。

「先に断っておきますがこの小十郎、決して温厚な性格とは言えませぬ。加えて、気が長いわけでもありませぬ。貴方が我が主であり、次期当主であったとしても容赦など出来ぬ故、無礼を働くことも多々あると心得て下さいませ」

少年がますます怯えたように半歩、後ずさる。
しかし小十郎はその視線を離さない。

「しかし義姉の申したとおり、小十郎は貴方の味方です。そのことだけは忘れずにいて頂きたい」

決して逸らされぬ視線と揺るがぬ声。
逃げ腰になっていた少年の目が丸くなった気がする。
己を奮い立たせるように小さな手がぎゅっと握り締められ、柔らかな唇が噛み締められる。
きっと睨むように髪の下から男を見つめた少年は、おずおずと己よりも十年上の青年の下へと足を進める。

「…それは…真か…」

初めて聞く声
。声変わり前の高いその声は怯えに震え、しかし周りから愚鈍と噂されているとは思えぬほど聡明で。
その事実に些か驚きながらも表情には出さず、己を見下ろしてくる少年をまっすぐに見上げる。
右目は、やはり見えない。
「真にございます。この小十郎、梵天丸さまに嘘など申し上げませぬ」

髪の隙間から覗く左目はどこまでも真っ直ぐで。不安げに揺れる瞳の奥に宿る強靭な漆黒。
例え爪の先ほどのこととはいえ、自分自身、愚鈍と言う噂をどこかで信じていたのだと思い知らされた。
このような瞳を持つものが愚鈍なわけがない。
結局は自分も見た目や噂に惑わされていたのだと。
己の浅はかさに恥じ入るように瞳を閉ざした小十郎は、幼き主へと頭を下げた。

勢いで書いた出会い編。
小十郎は梵の父親である輝宗の色小姓出身。
筆頭に対する忠心とは違い、輝宗様のことは尊敬。