悪戯猫

「おーい、梵ー」

襖を開けながら声を掛けて来る成実に、室内にいた人物がそちらへ顔を向けた。
何やら書簡を読んでいたらしい人物の右目には眼帯。
すらりとしたその人物の側に成実が腰を下ろす。

「何読んでんの?」
「Letter…真田幸村からの書簡だ」

白く細い指が書簡の端を摘んでひらひらと振る。

「相変わらず日記みてぇな、何が言いたいのか分からん書簡だ」

同盟国である甲斐の武将、真田幸村は政宗の好敵手である。
歳が近いせいもあるのか、政宗にやけに懐く彼からは頻繁に書簡が届く。
も、その内容がまた日記かというようなものばかり。
それでも政宗は書簡が届く度、律義に目を通す。
丁寧に畳んだ書簡を文机へと置きながら成実を見た。

「で、何の用だ?」
「ん?あぁ、そうだ。暇だから手合わせでも頼もうかなと思ってさ」

問われて漸く用件を思い出したように成実が身を乗り出す。
その言葉に隻眼が細くなり、口許には艶やかな笑みが浮かんだ。
思いがけぬ笑みに成実の心臓が跳ね上がる。

「ぼ…梵…?」

恐る恐ると名を呼べばその手が伸び、成実の体をその場に押し倒した。
肝心の成実は抵抗も出来ぬまま畳へと背を押し付けられる。
男とは思えぬ赤い唇の端が笑みの形に釣り上がり、青年の耳元に囁きを注ぎこむ。

「こっちの手合わせなら喜んでしてやるぜ?」
「な…な…」

成実の顔が真っ赤に染まる。
それを揶揄うように笑いが響く。

「Ha!そう硬くなるなよ」
喘ぐように口を開閉させる成実の唇に、その唇が近寄り…


「おめぇら、何してやがる…」

襖の開く音と共に、低く押し殺した声。

「こ、小十郎…っ!」

反射的に政宗の傅役の名を呼んだ成実だったが、ふと違和感に気付く。
今のは小十郎の声ではなかった気がする。
大体、小十郎が政宗に対して「おめぇ」などと呼ぶ事は天地がひっくり返ってもあり得ない。
押し倒されたまま、喉をのけ反らせるように声のした頭上を見た成実はぽかんと口を開けた。
視界に逆さまに映る人物の右目には眼帯がある。
見慣れた従兄弟の姿。
そろそろと目の前を見れば、今見たのと全く同じ姿。

「………御前、様…?」

自分を押し倒してくれた人物を怯えるように見つめれば、その顔がますます楽しそうに笑った。

「Timing悪ぃんだよ、殿は」

聞き分けられぬほどに似た声。同じ顔。
疑うように見つめて、漸く僅かな違いに気付く。
政宗本人よりも少し小さな顔。頬骨のあたりや顎の辺りがやや華奢か。
それに唇がふっくらとして赤い。
それ以外は双子のように瓜二つの人。

「いい加減離れろ、猫」

本物の政宗が怒気を孕んだ声で唸るように呟く。
従兄弟である成実ですら表情を引きつらせるその声に、しかし猫と呼ばれた本人は動じることもなく笑みを浮かべたまま。
それこそ猫のようにするりと成実の頬に自然な動きで赤い唇を押し当てて、漸く体を起こした。

「猫!」

政宗が怒鳴るもおかしそうにからから笑うだけ。

「気にすんな。ちょっと遊びたくなっただけじゃねぇか」
「お前は俺のだっ」

独占欲丸出しの言葉に猫はますます笑いを大きくする。

「Ha!殿に言われたくねぇな。姫や俺って女がいながら小十郎にぞっこんのくせに」
「~ッ!Damn!」

僅かに頬を赤くした政宗が、反論の言葉を見つけられないまま悔しげに罵った。
その憤りは、頬への口付けに顔を赤くして転がったままの従兄弟へと向かう。

「なるみ!お前も俺と猫と間違えんなっ!」
「なるみじゃないって!大体それこそ無理な話だろうがっ!」

がばっと体を起こした成実が政宗へと反論する。
ここは政宗の私室である。
そこで書簡を読んでいれば本人だと思うのが普通だろう。


猫御前。
政宗の第一側室であるその女性は、政宗と瓜二つである。
身長が意外と低い政宗と、女性にしては背の高い猫御前とは、並んでみてもさほどの差はない。
勿論彼女は隻眼などではないし、艶やかな漆黒の髪も以前は充分な長さがあった。
政宗の影武者になりたいと宣言して周囲を驚かせた彼女はそれが本気である証拠として、自らその長く美しい髪を躊躇いなく切り落とした。
元々さばさばとした性格で、その気の強さは男顔負けである。
髪を切り、政宗が使う異国語を勉強するとともに、その白く柔らかな手に真剣まで握られては政宗といえど止めようがなかった。
女であるからして、力がさほどあるわけでもなく、当然六爪などを操ることは出来ない。
しかし猫御前の剣の腕は既に一兵卒で敵う者がない。
元より才があったのであろう。
そんな彼女と政宗を瞬時に見分けれる者は少ない。
というか、この城では傅役である小十郎と正妻である愛のみである。
同じように、幼い頃から政宗と共にいる成実や綱元ですらじっくり見ないとなかなか分からない。
姿が似ると声帯の形も似るものなのか、性別の違いなどないかのように声まで似ているのだ。
とはいえ彼女が女性らしくないかといえば、そういうわけでもない。
体型などは、正妻である愛姫よりも女性らしい。
しかしその豊満な乳房をさらしで締め付ければ男性の厚い胸板に変わり、くびれた腰に布を巻く事で胸から腰、尻にかけての女性の体型は消え去る。
忍も驚きの変装だ。


「猫もその格好で俺の部屋に入るな!」
「…あたしに化粧と着物でめかしこんで欲しいの?」

少し高くなった声と、不意に変わる口調。
笑いながら眼帯を外せば本来の猫御前へと戻る。
勿論右目に異常はない。

「別にあたしはいいけど?周囲は殿が女装したって思うだろうねぇ」

既にその口調にすら違和感を覚えるほど、彼女の変装は板についている。

「Shit!」

悔しげに舌打ちする夫の姿に、側室でありながらも影を務める猫御前がおかしそうに笑った。

「な?この方がいいだろ?」

低い、政宗と同じ声。
にんまりと政宗の反応を楽しそうに眺めながら再び眼帯を取り付ける。

「…なるみ」
「だからなるみって呼ぶな!…分かったよ」

女のような読み方をされた成実が怒鳴りながらも、その真意を汲み取って立ち上がる。
ちらりと背後を気にするかのように一度振り返りながらも成実が部屋を出て行った。
その後には、血が繋がっていないのが不思議なほどに似通った男女が残される。


「…猫」
「An?」

大胆に裾を割り、片膝を立てた猫御前が立ったままの政宗を見上げる。

「お前は誰のものだ?」
「殿以外のものになった覚えはねぇぜ?」

冷やかな声に、だが女性はどこまでも余裕にその隻眼を見つめ返す。
自分を見上げて来る側室の前でしゃがみこんだ政宗が手を伸ばし、頬へと添える。

「ほんとに殿は独占欲が強ぇな。俺が他の男に構うのがそんなに不満か」
「不満」

きっぱりとした即答に猫御前が笑う。
その目が猫のように細められる。

「知ってんだぜ?殿がいっぱい男をたらし込んでんの」
「な…っ!お…おま…」

今度こそ政宗の顔が真っ赤になった。
先ほどの成実のように口をぱくぱくさせる政宗に猫御前は容赦なく止めをさした。

「女ならともかく、あんなに次から次へと男をたらし込んでる殿に言われてもな」

すっかりと撃沈した政宗を放置したまま、視界に入った煙管盆を引き寄せる猫御前。
慣れた手つきで火皿へと丸めた刻み煙草を詰め込み、炭火で火を点ける。
眼帯に隠れぬ左目を細め、美味しそうに吸った煙をゆっくりと吐き出したところで、漸く多少立ち直ったらしい政宗がのろのろと顔を向ける。

「…そのこと、愛は…?」
「俺は言ってねぇ。…小十郎とのことくらいなら、気付いててもおかしくねぇだろうが」

一瞬眩暈を感じた政宗は、しかし次の疑問を口にする。

「大体お前、どこからそんな情報を手に入れたんだ」

顔を顰めて問えば、猫御前が政宗そっくりの仕草で煙管を口から離す。

「黒脛巾」
「…戸兵衛」

きっぱりと言い放たれた言葉に、こめかみの辺りを引き攣らせた政宗が黒脛巾頭領の名を呼ぶ。
同時に天井から漆黒の服を身に纏った男が降りてきた。
その顔は何とも申し訳なさそうで。

「てめぇ…猫に何教えてやがる」
「も、申し訳ありませぬ…!」
「殿、止めろって。俺が頼んで教えてもらったんだからよ」

心底申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする黒脛巾頭領、柳原戸兵衛を見かねたように猫御前が口を挟む。
ぎろっと鋭い眼光で睨みつけられながら再び煙管を口元へと運ぶ。

「出来る限り殿の行動を知ってなきゃ影なんか務まらねぇだろ。Is it different?」

その口から出てくるのは発音美しい異国の言葉。
この城で、異国語を自由に操れる唯一の女。
髪を切り、剣を握り、異国語を学び。些細な声の変化や何気ない仕草まで瓜二つ。
幼い頃より傅役であった小十郎と同じくらい、政宗のことを知る人。
それほどまでに、猫御前は政宗のことをよく見ている。
もとより彼女は凝り性であり、完璧主義者でもある。
そんな彼女が、更に政宗に似せようと記憶までを求めるのは当然の事なのだろう。
猫御前がそこまでする理由は、彼女が政宗のことを本気で愛しているからだと政宗は知っている。
そして猫御前も、その本音が政宗に知られていることを知っている。
お互いに全てを知った上でのやり取り。
それはどこか遊戯のようですらあり。

「…あんまりお喋りな忍は好かれねぇぜ」

許可の言葉でも禁止の言葉でもない、それは黙認。
知ったことじゃないとばかりの放棄の言葉。

「Get out、Peeping Tom」

俗語であるそれを戸兵衛が理解できたとは思えなかったが、前半の言葉が通じれば充分だった。
そしてそれを確かに理解した忍頭はすっと頭を下げた次の瞬間姿を消した。
気配もない。
しっかりとそのことを確認してから、政宗は改めて己の側室へと目を向けた。
性別が違うと言うのに、鏡に映したかの如く己と同じ姿。
それを見るたびに、己の顔は中性的であったのだろうかと、実は少し落ち込む。
猫御前の顔は決して男性のものではないというのに。
何故こうも男である己と瓜二つなのか。
その齟齬が納得いかない。
政宗はそっと手を伸ばして煙管を奪う。
猫御前は抵抗するでもなく、簡単にそれを手放した。

「殿?」

不思議そうに首を傾けて問うてくるその人の目は、何もかもを見透かしたように笑っていて。
瓜二つでありながら、自分よりも余裕のある影を癪に思う。
奪った煙管を盆へと戻した政宗は猫御前の右目から眼帯を外し、頬に手を添えるようにして唇を重ねた。
猫のように細まる瞳は果たしてどちらのものか。
深く唇を重ねあったまま、政宗は畳の上へと己の影を押し倒した。

筆頭と成実はいつも御前様に揶揄われてるくらいがいい。
俺様な筆頭にはジャイアン理論が適用。
戸兵衛は黒脛巾の頭領。この気弱さでも。