甘い時間

「おい、愛」

障子が開くと同時に名を呼ばれ、柔らかな春の陽気を全身で感じ入っていた愛がそちらを振り返る。

「どうなさいましたか、政宗様」

部屋へと入ってきた夫のほうへと向き直った愛の前に、政宗が胡坐を組んで腰を下ろす。
そして懐をあさり、その中から二つの包み紙を取り出した。
二人の間の畳の上に置かれたそれを、愛が不思議そうに見つめる。

「どちらが欲しい?」

そう問う政宗の顔はまるで悪戯っ子のようだ。
愛は、そんな夫の幼さを感じさせる顔と畳の上の二つの包み紙とを見比べる。
その中身は知れない。

「相変わらず政宗様は意地悪ですこと。中を見ることも許されぬのですか?」

少し拗ねたような愛らしいその表情は政宗の前でしか見せぬもの。
政宗が好きな表情の一つだ。
僅かに口を尖らせると政宗の笑みが深くなる。
それは正妻である愛にしか見せぬ表情。
それを見るたびに愛は、この夫のことを好きな自分がいることを実感する。

「あぁ、見るな」

楽しげに禁じられてしまう。
そうなると答えは一つしかない。

「では愛はどちらも欲しゅうございます」

迷うことなく当然のように答える。
どちらかを選ぼうとするから迷うのだ。
どちらも選んでしまえば迷う必要などない。
即答が出来る。
微笑んでそう告げれば、呆気にとられたように左目を丸くした政宗が一瞬の後、おかしそうに笑い始めた。

「そうか、どちらも欲しいか。愛は欲張りだな」

いくら笑われようと、それが答えである。
愛は気にすることなく微笑み続ける。

「政宗様からの贈り物を片方お断りするなど、この愛には出来ません」

おかしそうに声を上げて笑っていた政宗が、その声でぴたりと笑いを止めた。
そして身を乗り出すとにやりと笑みを浮かべる。

「よし。ではどちらもやろう。開けてみろ」
「はい」

許可の言葉に嬉しそうに頷いた愛は、己から見て右にある包み紙を手に取った。
そしてそれをそっと広げる。
同時に梅を思い出すような甘やかな匂いが広がった。

「これは…」

包み紙の上に乗っているのは、小さな黒い丸薬。
匂いを発しているのはそれであった。

「練香にございますか?」

それは梅花に似ている。
しかし愛の知る梅花香よりも更に甘く、それでいて優しい香り。

「あぁ。俺が練った」
「政宗様が?」

告げられた言葉に僅か驚く。
知ってはいたのだ。彼が香道を嗜むということは。
それだけではない。
政宗は何だって出来た。


伊達者と呼ばれるくらいに派手好きで破天荒な奥州の王。
独眼竜と恐れられる戦場では6本もの刀を操って自ら先陣を切り、そのたびに傅役である小十郎に怒られ。
臣下との垣根は低く、まだまだ性格にも幼さを残す政宗。
そこからは想像もつかないほど、彼は何でも嗜む。
伊達者という言葉の意味は派手好きというだけではない。
粋で洗練されている者も伊達者と呼ぶのだ。
香道に始まり、茶道、花道、書道。
和歌を詠むことも出来れば漢詩をも詠み、能や狂言をも楽しむ。
自ら舞を舞うこととて珍しくはない。
普段の彼を見ていると失礼ながらそのどれもが意外なのだが、彼は正真正銘、文武両道の人なのである。
極め付けに趣味は料理である。
厨は男子禁制だという理を気にすることなく自ら厨に立ち、新しく作った料理を皆に振舞う。
この多岐に渡る教養は父である輝宗と傅役である小十郎、学問の師である虎哉禅師の教育の賜物であろう。
確かに気性の激しい性格ではあるが、とても優しい人だと愛は密かに思っている。
その優しさがこの練香に表れている気がする。
本来の梅花よりも甘く、優しい香り。
この柔らかな春の日差しと見事なまでに調和している。
香道を嗜むことは知っていたが、これほどまでに見事な腕前だとは思いもしなかった。
それを専門にしている者ですらこのような香りを作り出すことは出来ないだろうと思うのは、果たして欲目と言うものであろうか。

「ありがとうございます、政宗様。嬉しゅうございます」

胸のうちに、この香のような甘やかな気持ちが広がっていく。
心の底から浮かべられた愛の微笑み。
もともとの梅花から少しずつ改良していったものであるが、それが己の中の愛の心象だとはついぞ言えないまま頷いた政宗が照れ隠しのように立ち上がった。

「こちらも開けてよろしゅうございますか?」

大切そうに練香を紙へと包みなおして畳の上へと置くと、もう一方の包み紙を手に取る。

「あぁ、開けてみろ」

言われるがままに愛が紙を開く。
その上に乗っているのは、星の形をした色とりどりの小さな塊。
初めて見る、心が浮かれるように何とも可愛らしいそれに思わずと笑みが零れる。

「まぁ、可愛らしい…。これは何ですの?」
「砂糖で作った南蛮菓子で金平糖というらしい」
「これが南蛮のお菓子…」

赤に青、白、桃、橙、緑、黄と色とりどりのそれは食べるのが惜しく思える。
食べて楽しむものというより、目で楽しむもののようだ。
女性らしい、白く細い指が小さなそれを一つ摘んだ。
そして小さな口へと運ぶ。

「…甘い…」

砂糖の塊ともいえるそれは、落雁などとは比べ物にならぬほどに甘い。
そして口の中でさらりと溶けることなく、長く味わうことが出来る。
驚くほどに甘いそれに驚いている間に、立ったままであった政宗が愛の背後へと回りこんだ。
そして後ろからそっと抱きしめる。

「美味いか?」

優しい声で問われて愛が背後を振り返る。

「はい。このように甘いものは初めてです」
「そうか」

何とも無邪気で嬉しそうな返事。
抱きしめられた背中と同じように、胸が熱くなっていく。
それは嬉しさによるものか、羞恥によるものか。
片腕で愛の体をしっかり抱きしめたまま、不意に政宗の手が伸び、愛の手の上に乗った包み紙の中のそれを一つ摘む。
そしてその指は愛の唇へと運ばれる。

「愛…」

耳元で囁くように名を呼ばれ、頬が火照るのを感じながら愛は薄く口を開いた。
その僅かな隙間に、摘んだ金平糖が押し込まれる。
金平糖を手放した指が愛の唇を愛しげに撫でる。
二人だけの甘やかな時間を愛しむように。

愛姫の前では筆頭はちょっと幼め。
小十郎を前にするのとはまた別に、唯一甘えられる相手。