見えざる腕

幻影肢。
失った腕や脚が、まだ存在するかのように痛みや痒み、感覚を感じること。
戦場に生きていれば手足を失う兵も多く、その症状を持つ兵から話を聞いたこともある。
当然といえば当然のことながら、その感覚は理解出来なかったが。
まさか自分がそれを経験することになるとは。
溜め息を吐きながら右腕を頭上に翳し、きつく手を握りしめる。
剣を握り慣れた、やや硬い皮膚の感覚。
手のひらに柔らかく爪が食い込む。
だが、目の前には何もない。
本来拳があるはずの場所には、薄汚れた天井が暗く広がっているだけだ。
腕を動かせば、指の間を抜ける空気までもが鮮明に感じられると言うのに。

扉がキィと軋む。
この建物には二人しかいない。
「幻影肢の原因って何だ?」
「原因として言われているのは、末梢神経再生に伴う異常インパルス、或いは中枢神経に残存するイメージの知覚化、或いは四肢を失った事実を否定する心因」
拳があるはずの中空を眺めながら問えば、淀みなく辞書を読んでいるかのような答えが返ってきた。
「中枢神経と心因が原因だというのが、最近の一般的な見解だ」
そこに感情の色は一切ない。
側に寄ってきたクルガンへと、途中までしかない腕を伸ばす。
当然届くはずもないそれは、しかし確かに存在しない指先へと、よく知った頬の感覚を伝えてくる。
「こうすると俺は触れてるのに…これも全部、幻なんだよな…」
幾ら髪に触れてみても、一筋とて動きはしない。
それは、そこに腕が存在しないという、何よりも明確な証。
否、それ以前に腕の存在など目に映りはしない。
「シード…」
伸ばされた手がシードの頬に触れる。
触れられる感覚はシードにもあり、当たる髪が額から落ち、見慣れた指が目に映る。
これこそが、存在しているということなんだろう。
諦めて腕を下ろせば、ありもしない手がシーツの感覚を、皺までもを細かく伝えてくる。
「…痛みはどうだ?」
「腕の感覚はあるくせに、傷口が疼いて気持ち悪ィ」
「仕方ないな」
あっさり切り捨てるかのような言葉に、少しばかり視線を逸らせた。
仕方ないことは分かっている。
そんなことは、重々過ぎるほどに理解している。
理解はしていても…誤魔化しようのない感情がある。
右腕がないこと自体はまだ構わない。
だがそれを認めることは、最も認めたくない事実を認めることとなる。
ただ、それのためだけに右腕がないという事実を欺いている。
わざわざクルガンに聞かずとも、原因など分かっているのだ。
目を逸らせ、黙り込んだシードの右腕を手に取ったクルガンが包帯をほどいていく。
意識を取り戻した日以来、この空き家の外がどうなっているのかは知らない。
時折クルガンが出ていくが帰ってきても何も言わず、またシードも何も聞かない。
シードが知っているのはただ一つ。
右腕が無くなった事実を否定せざるを得ないほど、決して認めたくはない国の行方だけ。
死にたいとは思わない。
何故死ななかったのかと思うだけ。
生き残ることを望んでいないことを承知で、それでも死なせたくなかったと。
苦々しく…本当に苦渋に満ちた口調で呟いた声が耳から消えない。
立場が逆ならば、果たして自分は同じことをしただろうか?
崩れ行く城で意識を取り戻した時、急げば助かりそうな相棒を隣に見つけたとしたら?
答えは出ない。
だからクルガンを責めることは出来ない。
もしかすると、己も同じことをしたのかも知れないのだから。
「い…ッ!」
「悪い…痛んだか?」
不意に右腕に走った鋭い痛み。
びくっと体を跳ねさせると、薬を塗るクルガンの手が止まった。
「…いや…大丈夫だ…」
それは決して傷口の痛みではない。
腕を失う前に…あの戦いの中で『失った箇所に』受けた傷の痛み。
本来ならば感じるはずの、今は存在しない箇所に受けた傷。
それが酷く痛む。
ともすれば、切断面などよりも余程に。
その事実にシードは唇を噛んだ。

食事の支度をしてくると部屋を出ていったクルガンの背を見送り、シードは小さく溜め息を吐いた。
あの戦いの最中にいたのだ。
決してクルガンの傷も浅いものではないだろう。
本人は隠しているようだが、足を僅かに引きずっているのは後ろ姿を見ていれば分かる。
それに流水の紋章を使うこともない。恐らくは使わないのではなく、使えないのだろう。
「こんな…のんびり寝てる場合じゃないんだがな…」
右腕のことがあるとはいえ、それ以外のダメージに然程の差はないはず。
自分一人、呑気に寝ていていいはずもない。
「俺もまだまだってことか…」
まさか精神的に、これほどまでのダメージを受けるとは思いもしなかった。
もっと強くならなくてはと考え、我に返る。
強くなるべき理由が無くなってしまったのだと。
どの方向に思考を巡らせても、結局最後に戻ってくるのは、国が無くなってしまったという事実。
認めたくはない。
だが認めないわけにはいかない。
この半端な状態が幻影肢を作り出しているのだろう。
全くもって情けない。
何故こんな自分が生きているんだろう。

ぐだぐだと非生産的なことを考えている間に昼食が出来上がったらしい。
扉の開く音と、人の気配。
少し遅れて漂ってくる芳ばしい油の匂い。
手にしたトレイの上の皿の中には、昼食というよりも、朝食といったほうがしっくりくるものが並んでいる。
クロワッサン、ベーコン、スクランブルエッグ。
尤も、これを作ったのはかつて料理などしたことのない人物だ。
何もせずに日がなベッドにいるシードが感謝をこそすれ、ケチをつける筋合いはどこにもない。
運んできたトレイを、ベッドの横のキャビネットへと置く背中。
その背に向けて、シードは見えざる右腕を伸ばす。
ありもしない指先が背に触れた瞬間、クルガンが振り返った。
思わず息をのみ、これは偶然だと言い聞かせる。
たまたまタイミングがあっただけで、触れられたことに気付いた訳ではないのだと。
己の方へ伸ばされた、肩と肘の間で途切れた腕をクルガンが見下ろす。
そこに見ているのはかつてあったはずの腕か、無惨に切り取られた今の腕か。
「シード」
気まずく顔を反らせたところに呼ばれる名前。
ギシ…とベッドが軋み、クルガンが腰かけたことを知る。
シーツの上に落とした右腕を取られ、漸く怪訝な視線を向けた。
その先で。
何もない空間に口付ける姿を見つけた。
否、何もない空間ではない。
無くなったはずの右掌に、温もりを感じる。
呆然と見つめる視線に気付いたクルガンが目を向け、僅かに笑む。
「無理に治そうとせずとも構わない…」
ふと…張り詰めていた何かが切れた。
右手ではなく、実在する左手でクルガンの胸ぐらを掴み、引き寄せる
。 「何で…何で助けたりしたんだ!ハイランドもないのに…俺が生き延びて何になるっ!?こそこそと隠れることしか出来ねぇのに…何で…死なせてくれなかったんだ…何で」
嗚咽に言葉が途切れる。
「…俺が…」
胸元に顔を埋め、必死で嗚咽を殺すシードの背を抱き締めていたクルガンが、小さく口を開いた。
「俺が…お前と生きたかったんだ…」
小さいながらも、間違いなく告げられた言葉。
この男のものとは思えぬ言葉に、思わずシードが顔を上げた途端。
二人の体がシーツに沈み込んだ。

国が滅んで初めての交わり。
満身創痍とまではいかずとも、互いに傷が癒えぬ身としては荒々しく。
まるで怒りをぶつけるかのように身体を突き上げられ、やり場のない想いを抱えているのは自分だけではないのだと思い知らされた。
護るべき国を護ることが出来ず、それでも共に生きたかったのだと。
嬉しいのか悲しいのか悔しいのか。
自らの感情も知れぬまま、シードはクルガンの感情を受け止めるように身体を求め続けた。

懐かしい香りに目が覚める。
ぼんやりしたまま匂いのほうへ左腕を伸ばすと、暖かいものに触れた。
よくよく見ると、それはクルガンの裸の背。
振り返るその手には一本の煙草。
そこで漸く、この懐かしい香りがクルガンの好むメンソールなのだと知れた。
ベトベトに汚れていたはずの身体は清められているとはいえ、意識を飛ばしてから然程の時間が経ってはないだろう。
この男が煙草を吸うのは、大抵が身体を繋げた後なのだから。
「気付いたか?」
「…怪我人が煙草なんざ吸ってんじゃねぇよ」
問われた言葉を無視して、顎で煙草を指し示す。
今までとは明らかに異なる口調に、クルガンが僅かに眉を上げた。
一度、深呼吸するかのように深く息を吐き出し、キャビネットに目を向ける。
「俺も、いつまでも寝てるわけにはいかねぇからな。…明日、冷めても美味いスクランブルエッグの作り方でも教えてやるよ」
視線の先には、既に冷めてしまった昼食。
ぼそぼそと呟けば、ふわりとメンソールの香に包まれた。
じんわりと伝わってくる、低いながらも確かな温もり。
「あぁ…料理はお前の方が上手いからな」
「つか、お前は包丁すら碌に握ったこともねぇだろ」
それは貴族の男であれば、決して珍しいことでもないのだが。
覆い被さるように抱き締められたまま、シードは密かにもう一度息を吐き出した。
いつまでもここにいるわけにもいかない。
とりあえずベッドから離れなければ、歩くことすら困難になっている可能性もある。
どんな理由であれ、生き残ってしまったからには生きるべきであって、それならばぐだぐだとしていても仕方ない。
やや硬く、ぎこちないながらもシードは緩く笑みを浮かべた。