闇に滴る赤

結局開放されたのは、それから半刻以上も後のこと。
戦争の疲労と傷の痛み、それに伴う失血量。
その上散々嬲られれば、声を出す気力すら尽きるというもの。
第一言葉を発しようとすれば、遠慮なく噛み付かれた口の端と舌が痛む。
相変わらず左腕を縫い止められたまま忌々しげに、泣き腫れた目で隣に立つ男を睨み付ける。
「どうだ。熱も冷めたであろう」
傲岸とした態度でふふんと笑い、腕を組みながら見下ろしてくる姿。
ここまで堂々としていれば、怒りを通り越して呆れてしまう。
…殺されかけてもそう思ってしまうのは、既に頭が働くことを拒絶しているからに違いない。
自身にそう言い聞かせながら、出来る限り現実逃避する。
死体の転がる戦場で、殺されかけながら強姦されるなど堪ったものではない。
まして相手は人間ですらなく、恐ろしいことにこれでも味方に当たるのだ。
涙なしに語れそうもない。
尤も、涙ながらに語るなど真っ平ごめんだが。
可能ならば、一生封印してしまいたい記憶だ。
不意に男が大剣の柄に手をかけ、微塵の躊躇いもなく、深々と刺さった刃を引き抜いた。
「ッア!」
ずたずたに切り裂かれた傷口を更に傷つけられる痛みに声が上がる。
「何だ。まだ声が出るではないか」
ぬらぬらと血の滴る刀身と顔とを見比べながら、意外そうに眉が動かされる。
「ならばもう少しいたぶってやっても良かったか」
くつくつ笑いながら、不吉な言葉が呟かれる。
しかし此方はそれどころではない。
今まで栓の役割を果たしていた大剣が抜かれたせいで、一度に血が溢れだしてきた。
指一本動かすのも億劫などと、甘いことを言っている余裕はない。
右肩と首筋の傷。
既に貧血を起こすほど、充分すぎる血が流れている。
これ以上の出血は不味い。
右手で傷口を押さえ、きつく圧迫する。
手甲はとっくに男の手によって外されている。
「…っ…」
血が止まらない。
酷い痛みに散漫になる意識を、それでも出来る限り集中させる。
右手に宿る紋章が、何とか微かに水色の光を放った。
止めどなく流れ出ていた血が緩やかになり、やがて完全に止まる。
ゆっくりと傷口から手を離し、それを目で確認すると安堵の吐息が零れた。
腕を動かしたついでに、噛み付かれた首筋に触れてみる。
最初に触れたのは、刃に裂かれた箇所。
微かな痛み。
そのまま手を滑らせると、無惨に皮膚が破れた箇所に触れた。
確かに筋肉しかない箇所とはいえ、傷は案外深そうだ。

「おい、貴様」
傷の様子を確認するところに、上から降ってきた傲慢な声。
疲労と安堵とで感じる睡魔。
油断すれば眠りに落ちそうな意識を精神力で引き留め、落ちそうになる目蓋を持ち上げ視線を向ける。
視界に入る姿は、いつの間にか兜を被り直している。
それでも真下から見上げているため、顔ははっきり見ることができる。
「このまま死骸と添い寝するつもりなら止めんが、俺は戻るぞ」
それはつまり、どういう意味か。
ぼんやり考えてから、思い至る。
「…俺も連れていけ」
ぼそりと嗄れた声で言えば、兜の下から覗く唇がにぃと笑みを浮かべた。
「よかろう」
尊大に頷いた男が軽く手を振ると、その手の中の大剣が闇に溶けるように消える。
その手が伸びてきたかと思えば、ひょいと片手で持ち上げられた。
勿論そこに気遣いなどというものは、ない。
「ぃっ…て…!もっと丁寧に扱え!」
米俵のように肩に担がれる衝撃に目眩がする。
思わず怒鳴れば、この男にしては珍しく呆れを含んだ声が聞こえた。
「まだ元気ではないか。貴様の体も随分と化け物じみているのではないか?」
「それをてめぇが言うか…」
これほど痛め付けてくれた張本人にだけは言われたくない。
いつもならば背中を殴るなり何なりするところだが、流石に腕を動かす気にはなれない。
その代わりに、胸部へと膝蹴りをくれてやる。
どうせ甲冑に防がれるだけだが、多少の腹いせにはなる。
「あまり暴れると、途中で放り出すぞ」
物騒な言葉に、仕方なく動きを止める。
途中で放り出されるなどという冒険は、罷り間違ってもしたくない。
くつくつと愉快そうな笑いが肩に伝わってきた。
「しっかり掴まっていろ。落ちても知らんぞ」
「…あぁ」
むすっと頷くも、その言葉に従わないわけにはいかない。
痛みを堪えて、甲冑から覗く男の服を握り締めた。
一体何がおかしいものか、低い笑いが耳に届く。
次の瞬間、どろりとした闇が体にまとわりついてきた。
何度経験しても慣れぬ感覚にきつく眉を寄せる。
やがて闇が完全に互いの体を隠し、溶けるようにその姿は消え去った。