闇に滴る赤

甘い…甘ったるい匂いが鼻につく。
感じる味は、とろけそうな甘さと鉄錆のそれ。
目の前には限りない赤。
手を動かせば、ぺたりと粘着質な感覚。
その音が耳に残る。

漸く五感の全てが正常に働いていることに気付いた。
否が応にも、体内の熱を思い出す。
全身に纏わりつく冷えた血とは裏腹に、体内を巡る血は焼けるように熱い。
全身を焼き付くされる錯覚すら起きそうになる。
そして体内の熱とは別に、痺れるかのような熱を放つ右腕。
糸の切れた人形のように両膝をつき、熱く呼気を苦し気に吐き出す。
何度も、何度も。
突如、背後に伸びる影が蠢いた
。 闇を集めたかのような黒は徐々に形を持ち、地上へと姿を現し始める。
立ち上がった闇は人の形を象る。
それが完全に形を成すより早く。
指にかかる程度であった柄をきつく握り締め、腰を捻るように右膝を立てながら刃を背後へ叩き込んだ。
ガキン、と音を立てて剣が止まる。
薙いだ先に視線を流せば、自身の刃と垂直に噛み合う大剣。
「随分と荒れているではないか、将軍」
「…何をしにきやがった」
どこか揶揄するように、かけられる言葉。
それを無視し、低く、唸るように呟く。
どうせ碌な返事は返って来るまい。
案の定、人を小馬鹿にしたような口調と共に溢された失笑。
「貴様には関係なかろう?」
「あぁ、関係ねぇな」
こいつがいつ、どこにいようと知ったことではない。
好きなようにすればいい。
小さく鼻を鳴らし、噛み合ったままの刃を乱暴に弾き、立ち上がる。
こんな奴を相手にするほど暇ではない。
早くクルガンを見つけて、この昂りを鎮めて貰おう。
駐屯地へ戻るべく、黒い男に背を向けて歩き始め…足を止める。
ゆっくり視線を落とした己が首筋。
熱く脈打つそこに添えられるのは、冷たく鋭い刀身。
「…何のつもりだ」
皮膚に食い込む刃を感じながら低く問う。
人ではないこの男の、尋常でない膂力はよく知っている。
その気になれば、この状態から人間の首を落とすことも可能だろう。
否、そんなことをせずとも、少し力を込めて軽く腕を引くだけでいい。
動脈を切られて無事でいれるほど、自分は人間離れしてはいない。
背後から聞こえるのは、どこまでも人を揶揄するそれ。
「餓えておろう?」
「あァ?」
主語のない言葉。
何が言いたいのか理解できず、怪訝に片眉を持ち上げる。
「まだ血に餓えておろう」
「…」
首に宛てられた刃を無視し、ゆっくり振り返る。
漸くと正面より男を…人の形をしたそれを視界に入れた。
闇を凝固させたかのように昏い、光すら吸い込んでしまいそうに黒い鎧。
それとは不釣り合いに、長く明るい金の髪。
兜の下から覗く口には禍々しい笑み。
「これでは殺し足りぬか?」

周囲に散らばる肉の塊。
少し前までは人と呼ばれた生き物の残骸。
全て、己の手で為したもの。
喉を切り裂かれたものも、体の一部が欠損しているものも、腹部から腸を溢しているものも。
全て一人で行ったこと。
それらに無感情な視線を落としてからもう一度、黒い男に目を向けた。
「てめぇじゃあるまいし、んなことあるか」
努めて冷静に吐き捨てる。
血に餓えている?
人を殺し足りない?
それではただの殺人快楽者だ。
「目を背けても現実は変わらぬぞ?」
嘲罵するような笑みを見た瞬間、首に宛てられた刃の存在が頭から消え去った。
右手に提げたままの剣を持ち上げ、甲冑の隙間を狙うように首目掛けて大きく振るう。
が、それは素早く引き戻された大剣に受け止められた。
少し遅れて首筋に微かな痛みを感じ、皮一枚裂かれたことを知った。
血が首を流れ落ち、服へと染みていく。
「くくっ…図星であろう」
喉からこぼれ落ちる、悪意に濡れた嗤笑。
「…黙れ…」
苛立つのは謂われのない侮辱のせいか、図星をつかれたからか。
「…っ」
力任せに剣を弾かれ、よろけそうになるのを何とか踏みとどまる
。 代わりに左手を緩く握り締め、体勢を立て直しつつ、不意打ちのように鼻先へ裏拳を放つ。
軽く受け止められるのは予想通り。
掴まれた左手はそのままに、その影から脇腹の隙間を狙って突きを放った。
半歩下がるようにかわされれば、思わずと舌打ちが漏れる。
すかさず放たれた蹴りが的確に膝の皿を砕こうとするのを、咄嗟に放った蹴りで相殺。
右手首を返し、突きを横薙ぎへ変更するも、蹴りでバランスが崩れたそれは鎧にぶち当たって止まった。
刹那。兜の下から覗く口元に笑みが浮かんだ。
ぞくりと鳥肌が立つ。
反射的に距離を取ろうとして、漸く左手を掴まれていることに気付いた。
掴まれた手首の骨が軋む。
「いっ…」
痛みに眉を潜めた瞬間、脳が揺さぶられるような衝撃と共に意識が飛びかけた。
少し遅れて、大剣の柄頭で顎の辺りを殴られたのだと知る。
軽い脳震盪。
そう判断するのと、平衡感覚を失って膝をついたのは、ほぼ同時。
骨が軋むのも構わず力任せに左腕を引き、場を離れようとするも少し遅い。
「か…っは…!」
胸部を蹴り上げられ、開いたそこを踏みつけられる。
勢いよく背を地に叩きつけられ、肺から空気が漏れた。
片足で身体を地に押さえつけたまま異形が笑う。
「随分と無様な姿だな、将軍。それほど傷が痛むか」
「うるせぇ…」
大剣で示す先は、大きく裂かれた右肩。
出血だけは止めたものの、傷が塞がったわけではないし、痛みが消えたわけでもない。
「相変わらず口だけは達者なことだ」
胸部を踏みつけていた足がゆっくりと上がり、漸く呼吸が楽になる。
だがそこから抜け出すほどの間もなく、再度無造作に足が降り下ろされる。
その先は、今まで足のあった胸部ではなく、右肩の新しい傷口。
「ぁぐ…!っ…ぁ…」
踏みにじられる度、指の先までを激痛が走る。
唇を噛み締め睨み付ければ、兜の下から覗く、左右で色の異なる瞳に愉悦の色が浮かぶ。
「…っの…変態が…ッ!」
唸るように怒鳴り付けるが、表情が変わることはない。
元より分かっていたことではあるのだが。
折角塞いだ傷が開き、裂けたコートを赤く染めていく。
「これぐらいせねば、貴様は大人しくならぬだろう?」
「…」

全く…何につけても腹が立つ。
荒々しく呼吸を繰り返しながら目を細める。
どうすれば、この化け物を殺すことが出来るだろうか。
真っ向から仕掛けても勝てないだろうことを自覚しているだけに、余計腹立たしい。
射殺すような視線に気付いたか、男が軽く首を傾けた。
そして浮かぶのは残酷な笑み。
ドスッと鈍い音と衝撃。
少し遅れて、灼けるような痛みが走った。
「ぅあ…!」
筋肉が強ばり、体が跳ねる。
二の腕を大剣で貫かれたのだと気付いたのはそのあと。
「…っぐ…ぁ…」
ズズッ…とおぞましい音を立てながら、更に深く押し込まれる。
男の手が柄から離れるのが、視界に入り込む。
目を隣に流せばすぐ横に、己の左腕を地に張り付けた大剣があった。
残る刀身からして、半分ほどは腕と土に埋まっているだろうか。
「睨む気も失せたか?」
頭上から落ちてくる声。
喘ぐのに必死で、言葉を発することも出来ない。
だが。
大剣から目を逸らせ、顔を覗き込んでくる男を睨み付けてやる。
地面に縫い止められた左腕は勿論、踏みつけられたままの右腕もまともに動きそうにない。
両足は動かすことが出来るが、男の足が甲冑で固めてあれば、蹴りつけたくらいではびくともしないだろう。
それでも服従する気はないと睨み付ければ、何とも加虐的な笑みが浮かんだ。
「そうでなくては、嬲り甲斐がない」
どこまでも悪趣味な言葉。
舌打ちの一つもしたいところだが、ともすれば薄れそうになる意識を保つので精一杯。
不意に右肩を踏みつける足が退けられた。
そして無造作に兜が外される。
長い金の髪が零れ落ち、緑と赤の目が露になった。
意外と端正なその顔は、過去に何度か見たことがある。
その顔が何の前触れもなく近付いてきた。
ぼんやりそれを目で追い。
薄く皮膚が裂けた箇所、喉笛から動脈にかけて歯を立てられ、一気に意識が覚醒する。
必死で身を捩り、逃れようとするも、腕が地に縫い止められていれば碌に動けるはずもなく。
もがく様を愉しむかのように少しずつ力が込められ、圧迫されていく。
歯が食い込んでいくのを感じると共に、視界が黒く狭まっていく。
右手に握ったままの、重い剣の柄を手放した。
肩の痛みは酷いが、骨に異常はない。
何とか持ち上げた右手で男の長い髪を掴み、できる限りの力で引っ張る。
さほど力が入ったわけではないが、それでも多少の役には立ったらしい。
男が一度歯を離し、胡乱そうに顔をもたげた。
しかしそれも一瞬のこと。
鋭利な刃物で与えられるのとは全く別物の、もっと凶暴な痛みが脊髄を駆け抜けた。
「い…っ…!」
皮膚を食い破られる痛み。
先程まで暗かった視界が、激痛に赤く染まる。
いっそ気を失ってしまいたい誘惑に逆らい、抗う。
気を失おうものなら、それこそ何をされるか分かったものじゃない。
否、今でも充分好き勝手されてはいるのだが。
皮膚に食い込んだ歯が抜かれてやっと、その場所が喉笛や動脈などではないことを知った。
恐らく血が流れてはいるのだろうが、噛みつかれた周囲が麻痺しているらしく、その感覚はない。
「くく…ふははははは!そう心配するな。殺してしまっては愉しめぬだろう?」
だから殺しはしないと暗に告げられる。
いい加減怒る気も失せてきた気がするのは恐らく、血を失いすぎているせいか。
男の手が、血に汚れたサーコートにかかる。
そして浮かぶ表情は今までで一番たちの悪い笑み。
「さあ、存分に啼き喚いて愉しませるがいい」