届かぬ祈り

鳥の声に目が覚める。瞼の向こうに感じる、眩しい日の光。
昨日、一昨日のことを思い出しつつそろそろと目を開く。
一面の白。
一昨日と同じように手を翳して拳を握り、開いてみる。
白い天井を背景に動くそれは、確かに見覚えのある自分の手。
視界がぼやけてもなければ、暗くもない。霞んでもいない。
多分、後遺症と呼ぶべきものはない。
ゆっくり視線を室内に彷徨わせる。
狭いこの室内では正確には分からないものの、視力落ちている様子もなさそうだ。
色がおかしいということもない。
どこか予想していたそれに特に喜ぶでもなく、身体を起こしながらテーブルの時計へ目をやる。
目が見えず、何もできずに早く寝たせいか、時間はまだ6時になってもいない。
いつもの軍服に着替えながら考える。
悪化したわけではないのだから、こんな朝早くに誰かに知らせに行く必要もないだろう。
相手がクルガンにしろ、ジュリアンにしろ、軍医にしろ。
シュルリと音を立てて羽織ったサーコートの上からベルトを締め、棚に立てかけてあった剣をベルトへと装着する。
「確かこの辺に…」
半ばガラクタに近い諸々が乱雑に詰め込まれた棚を漁って、細長い紙袋を引っ張りだす。
それから施錠された扉を開いて執務室へ。
コレクションといっても差支えがないほどに酒瓶が並んだ棚から、一番値の張るワイン瓶を紙袋に入れて部屋を出た。
夜と同じように人気のない回廊をのんびり歩いて城を出たシードは、その足で馬小屋へと向かう。
それから早番の見張りの兵に、一時の逢瀬なのだと冗談めかして行き先を濁し、愛馬に乗った。
向かう先は、昨日に訪れた地。
昨日はのんびり歩ませていたので片道半刻もかかったが、普通に走らせればその半分ほどで充分に足りる。


このような時間に馬を走らせることは余りない。
夏が近いとはいえ、まだ冷えたままの静謐な空気と、旭光特有の眩しく柔らかな光。
まるで悪しきものを祓うかのような、清らかで厳かな空気を肺一杯に吸い込みつつ、手綱を引いてスピードを緩めたシードは、墓石の手前で馬から降りてゆっくり歩み寄った。
昨日は見ることのできなかったその石を両目でしっかりと捉え、昨日と同じようにその前に両膝をつく。
手にした紙袋を脇へ置いたシードはただ形だけ、手を合わせて目を伏せた。
一呼吸の後、目を開けたシードは紙袋に手を伸ばし、中からワインを取り出す。
そしてコルクを抜き、惜しむ素振りを見せることなく眼前の石へとワインを掛けた。
血の色にも似た、濃紅の液体が石の表面を流れていく。
半分ほどワインを流せば、周囲には濃い酒精の匂いが漂い始める。
酔いそうに芳烈な香の中、ワインの口を上げ、それを自分の口元へと運んだ。
舌に当然のように馴染む、ふくよかな香と味、口当たりを記憶にとどめるかのように殊更ゆっくりと喉へ流し込み、残りはそのままに石の前に置く。
そして冷やかな空気を大きく吸い、深呼吸をするかのようにそれを吐き出した。


「ありがとうございます、皇子」
まるでかつての主君がそこにいるかのように、まっすぐ墓石を見つめる。
「昨日ここへ来たことで随分と楽になりました…といえば、鼻で笑いますか?」
その姿がありありと想像出来て、シードは微かに笑い、すぐに表情を改めた。
「貴方を裏切り、死に追いやり、一人その罪悪感に苛まれては、一人勝手に納得して…独り善がり以外の何物でもないのは重々承知の上で…こうしてまた、ここに来させて頂きました」
石をまっすぐ見つめたまま口にしてから、照れたように微苦笑を浮かべる。
「尤も、この言葉は貴方に届いてもないでしょうが。…どこまでも俺は利己的な人間のようです」
苦味と照れの入混ざった、複雑な笑みを浮かべたまま独白は続く。
「俺はあなたの傍に居たかったんです。それが理由で死んでも構わないとまで思っていました。でも…狂皇子なんて呼ばれてたくせに、あまりに正直で…誰の目にも、貴方がハイランドすら壊してしまうことが明白で…それは唯一、俺が許せないことでした。それさえ知らなければ…俺は多分、貴方の傍にいた。それくらい俺はルカ様、貴方のことが好きでした」
躊躇い一つ見せることなく、はっきりと言い切る言葉。
誰にも告白できぬ想いを吐き出す。
日が高くなっていく中、酒精に濡れた石を愛惜しむように指先で撫で、笑う。
「ここまで来ると本当に、敬愛の念を通り越して恋愛感情みたいなもんですね」
二度とは逢えぬ人にそっと告げ。
周囲をぐるりと見回せば、目が合った馬が主の意を理解し、ゆっくりと歩いて来る。
甘えるようにすり寄せられる鼻先を、褒めるように撫でてやってから鐙に足をかけ、背に跨る。
「また…酒でも持ってきます」
柔らかく笑いかけたシードは、軽く手綱を引いて墓石へと背を向けた。