届かぬ祈り

目を覚ましたシードは半身を起こし、窓の方へと目を向けた。
明るくはない。つまりまだ夜である。問題は今、何時かということだ。
見ることが叶わないことを知りつつも、癖のようにサイドボードの上の時計へ手を伸ばしたシードは、常にはない何かが指先に触れたのに首を捻った。
慎重に形を確かめ、どうやらそれがマグカップらしいと知る。
寝る直前にジュリアンが部屋に入ってきて何かを言っていたように思うが、それがこれだったのだろう。
甘酸っぱい微かなレモンは夢の中のことではなかったらしい。
生温いホットレモンで喉を潤しながらシードは思う。
完全に冷たくなっていないと言うことは、さほど時間は経っていないのだろう。
ましてこれは、猫舌の己が飲めるほどには温い温度だったはずなのだから。
長く寝ていても、精々一刻ほどか。
ホットレモンは心を落ち着ける。
不安を少しでも和らげるために淹れてくれたのであろうそれに感謝しつつ、きちんと味わって全て飲み干したシードはカップをサイドボードに戻して立ち上がった。
先に寝入ってから一刻。ならばまだ、確実に起きている。
一人の人物を思いながら扉へ向かう。
ジュリアンが施錠したらしい鍵を手探りで解き、私室から執務室へ。
慣れた部屋を通って回廊へと続く扉の鍵を開けたシードは執務室を出た。
人の気配はない。ゆっくりと歩き出す。
感覚だけが頼りだが、間違えるはずもないほど歩いた場所だ。躊躇うことなく真っ直ぐ進む。
不意に足を止め、右を向く。
一歩近寄り、手を伸ばす。手に触れるのは冷たい壁ではなく、暖かな木の扉。

念のためとばかり手を握り締め、2度扉を叩く。
「開いている」
扉一枚隔てた先から聞こえてくる慣れた低い声に、知らずと肩に入っていた力を抜いてノブを捻る。
「やっぱまだ起きてたな」
ひょいと覗き込む先は明るい。そのことに安心する。
「シード?一人で来たのか?」
「俺はガキか?」
僅か驚く声音にけらけらと笑いながら、自分の部屋と同じくらいに慣れた部屋を歩いてソファに腰掛ける。
「仕事してたのか?」
微かな墨の匂い。そんなものがなくとも、間違いなく仕事をしていたのであろう相手に、それでも問い掛ける。
「ああ。…何か話があるんだろう?」
頷く声に次いだ声。それに続くは立ち上がる音。

「なんかさ、一人でいると気が滅入って」
明るく笑うシードが何度目か、グラスを傾けた。
「シード、飲み過ぎだ」
「んなことないって」
まだ舌は回っているものの、常にはない程に酔っているようだ。
元々酒を飲むペースは早いシードだが、今日は特に早い。
諫めるようにやんわり注意をするも、聞き入れられる様子はない。
空になった3本のワイン瓶を横目で見たクルガンがシードの手からグラスを取り上げた。
「何すんだよ?」
「急性アルコール中毒でも起こして倒れられては堪らんのでな」
不満げに低く唸り、眉を寄せたシードは、しかし溜め息をついて諦めたように隣に座るクルガンへと凭れかかった。
いつもは正面に向かい合って座るのだが、今日に限りシードは隣に座るよう告げた。
視認することが出来ない分、実際に触れ合っていないと不安だからだろう。
それが分かっているからこそ、クルガンはシードの頭を撫ででやる。
そろそろと伸びたシードの手がクルガンの頬を捉える。
「こんなに側にいるのに…お前の顔を見ることも出来ないんだな…」
先までの機嫌のよさとは打って変わり、小さな声でシードが呟く。
か細く、弱々しい呟きにクルガンがその体を抱き締めれば、光以外を映さぬ紅玉が欲の色を帯びる。
引き寄せ、唇が重ねられた。それは目が見えないがゆえに僅かにずれてクルガンの口の端を掠め。
拙さすら感じさせる口付けに唇を重ね直したクルガンは、シードの体を支えたまま、ソファへとゆっくり押し倒した。