届かぬ祈り

「ん…?」
不意に辺りが暗くなった気がしてシードは机の上の蝋燭の炎へと目を向けた。
随分と短くなったせいで多少炎が小さくなっている気はするが、普段このように突然知覚することがあったろうか。
記憶を探ってみるもよく分からず、疲れているのだろうと結論付けたシードはその炎を消し、少し早いながらもベッドへと潜り込んだ。
それが始まりだった。

「……………」
朝である。当然のように明るい。にも関わらず何かがおかしい。
そう気付いたのは、いつものようにぼんやり天井を見上げている時だった。
まだ視界がぼやけているのか、天井が見えない。
眉を顰めて目を擦ろうとしたシードは白い天井どころか、すぐ目の前にあるはずの持ち上げた己の手すら見えないことに気付いた。
しばし黙り込み、瞼を伏せて深呼吸。それから再度、目の前に手を掲げてみる。手を握り、開いてみる。
やはり何も見えない。
「シード様、起きてらっしゃいますか?」
扉を叩く音。ジュリが起こしに来たのなら今は6時半か。
ゆっくりと扉の方へと目を向ける。
鍵を開ける音。続いて扉が開く。
「シードさ…何だ、起きてるじゃないですか。返事くらい…、…?」
ぼやきかけたジュリアンが、しかしシードの様子がおかしいことに気付いたのか、怪訝に口を噤む。
その気配を察して、シードが頬の辺りをやや引きつらせながらへらりと笑った。
「よぉ、ジュリ。…何かさ、目…見えない気がするんだが…気のせいじゃない、だろうな…」

「異常はない」
慌てふためいて医務室へと走って行ったジュリアンは、そのまま初老の軍医を連れて戻って来た。
よく怪我をして医務室にお世話になるシードとは馴染みである。
今は顔こそ見ることは出来ないが、きっといつもと同じ仏頂面をしているのだろう。
「えーと、異常がないってのは?」
「言葉通りに決まっておる」
身も蓋もない。
瞬時に切って捨てられたシードは改めて言葉を探す。
「視神経や眼球に異常はないってことか?」
検査に使った道具を鞄へしまいつつ老人が大きく頷く。
「そうだ。物を見るに、何ら問題はない」
「じゃあ何で…」
「儂が知るわけなかろう」
…それが医者の言葉だろうか。
過去に何度も思ったことを再度心の中で繰り返す。
軍と言う場の性質上か、どうにも厳格で仕方ない。
「頭をぶつけてもおらぬのであろう?ならば精神的な問題である可能性が高い。理由は将軍殿にしか分からんし、儂はそちらの専門ではないのでな」
「精神的って…」
「多い症例ではないが、大抵は失明したときと同じく治るのも突然だ。全盲でなくて良かったのう?一応、抗不安薬は処方しておくので、後で副官殿をよこすよう。…他に何か?」
「あ、いや…」
一息に向けられた情報を半ばパニックの頭で必死に処理し、こくこくと頷く。
「ではまた何か、異変や質問があれば使いでもよこしなされ」
きびきびとした口調で言い放った老軍医が鞄を手に扉の方へ向かう。それの開く音と閉じる音。
部屋を出るまで見送りに行ったのであろう、ジュリアンの気配も遠ざかる。
「…精神的理由で失明って…」
呆然と、シードが言葉を繰り返す。
そのようなことがあるのだろうか。いや、事実この眼は今、光以外を映してはくれない。
昨日に何があった?失明するほどのことが?
心当たりなど全くない。いつもと同じように、ごく普通に一日を過ごしただけ。
ならば何が失明をもたらした?
焦燥感に舌を打ち、冷静になれと己に言い聞かせる。
どこかに何か、原因はあるはずなのだ。それが分からなければどうにもならない。
ベッドに座ったまま、定まらぬ焦点をじっと足下へ落とす。
「シード様、…クルガン将軍を呼んで来ますね?」
部屋へと戻ってきたジュリアンがそっと伺いを立てる。
そう、何よりまずクルガンにこのことを話さなくてはならない。
「あぁ、頼む」
小さく頷き、頼むと返って来る返事。ぱたんと小さな音を立てて扉が閉まった。

目が見えない分、戦場にいるかのように他の五感が冴え渡る。失われた視覚を他の四感で埋めようというのだろうか。
昨夜寝る前、きちんと閉め損ねたらしい窓から微かな風が入り込んで来るのを感じつつ、シードは扉の方へと顔を向けた。
執務室の方に気配と足音が3つ。
そのうち2つは間違えるはずのない、ジュリアンとクルガンのもの。残る一つは…
「レイシャ、か?」
クルガンの副官の名を呟くと同時に扉が開いた。
「いた方が何かといいだろう?それより…」
返された言葉はクルガンのもの。
先まで老軍医が座っていた、ベッド脇の椅子に腰を下ろす気配。
途切れた言葉に小さく頷き、右手を顔の前に持ってきた。
「全く、何も見えないな。明るさだけは鮮明に分かるんだが」
現に今も、窓から差し込む光が先より強くなっているのは分かる。
持ち上げていた右手を握り締めてシーツの上に下ろす。そして焦点が定まらないながらも、クルガンの方へと顔を向けた。
「…どうすりゃいいと思う?」
「それを俺に聞かれてもな…あぁ、そう情けない顔をするな」
小さな溜め息。続いて伸びて来た手がシードの頭を撫でる。
…そんなに泣きそうな顔をしてたのだろうか。
頭を撫でる手の暖かさに心強く思いながらも、自然眉を顰めてしまう。
「とにかく暫くは様子を見るしかないな。幸い、今のところ同盟軍も動く様子はない。まずはジョウイ様に報告して、あまり長く続くようなら…また色々と考えなければならないことが山のように出て来るな」
目が見えない人間に一軍を任せるというのはあまりに無謀だろう。まして時期が時期だ。
思わず唇を噛む。
「出来る限りの手は打つ。焦るのは逆効果だ。…二人とも、シードの書類を全て俺の部屋に運んでくれ」
「はい」
冷静とも思える静かな声音で二人が声を揃えて返事をする。そして本日何度目か、扉の開閉する音。
隣の執務室へと二人が移動し、私室にはクルガンの気配のみが残る。
「…悪い…」
「言っても仕方あるまい。それより原因は分からないのか?」
向けられた問いに力なく首を振る。
「…今のところは…思い浮かばないな…」
「そうか。…焦らずにゆっくりと考えればいい」
大して期待していた風もなく頷いたクルガンがシードの頭を抱え込むように引き寄せる。
「暫くは俺とレイシャ、ジュリアンで何とかする」
微かな、しかし馴染み深いシトラスの香にシードは物を見ることの出来ない瞳を瞼に隠す。
そしてこくりと、小さく首を振った。
「同盟軍の出方にも寄るが、一週間くらいは大丈夫だろう」
シードがもう一度、無言で頷く。
腕の中にシードを抱き締めたまま、クルガンは伏せられた瞼の上へと癒すように唇を押し当てた。