Sollen

大きく静かに息を吐き出し、肩から力を抜くと同時に全ての感覚が戻ってくる。
辺りに漂っていた甘ったるい香は瞬時にして錆びた鉄錆のそれに変わり、戦場は累々とした死骸の転がる徒野へと姿を変える。
慣れたこの身には当たり前のこととは言え、眠らせていた正常な感覚が目を覚ますこの瞬間だけはいつまで経っても嫌なものだ。
血と脂がこびりついて切れ味を失った剣を一振り、慰め程度に血払いしつつ曇った刀身を一瞥してから納刀する。
柄から手を離せば、ぺたりと粘ついた音がした。
目をやれば手の平には鮮やかな赤がついている。
返り血で、柄を握り締める手の平が汚れることはまずない。
軽く眉を顰めて目を凝らせば、骨に問題はないものの親指の付け根に一筋の切り傷。
意識した途端にそこが熱を持ち、ずきずきと痛み始める。
こんな場所を一体いつ斬られたのか。
眉を顰めたまま、しかし既に血が止まっているのを確認すると手当てをするでなく徒野…戦場の跡地を歩き始めた。

どうやらハイランド側に被害はほとんどないらしい。
至るところに転がる死体の着衣をざっと確認する。
まだ息のある者はいそうにない。
ならばそろそろ戻った方がいいだろう。兵からの報告が届く頃だ。
そう思い、踵を返せば背後で何やら音がした。
僅か目を細め、神経を集中させる。
大体の見当をつけてゆっくり振り向くと、鎧がたてる金属音。
黒い炭と化した元人間が転がり、その下から出て来たのは1人の男。
シードは位置を確認するべく周囲を見回す。
ここは己の部隊がいた場所ではない。魔法部隊が配置されてたあたりか。
恐らくは他の人間の影になっていたか何かで死を免れたのだろう。
とはいえ、当然のことながら火傷はかなり酷く、一部炭化している皮膚の色は、赤を通り越して白い。
第3度の火傷だ。痛みもないだろう。
更には範囲が広い。早急に手当てをしなければ長くはない。
そう冷静に判断する間、現状を把握しようとばかりに男がぎこちなり動きで周囲を見回す。
と、斜め後ろまで首を回し、そこに立つ赤毛の男を見つける。
こちらを振り向いた男は意外と若い。シードよりも2、3年下だろうか。
敵将の姿に青年が表情を強張らせた。
そんな動作を眉一つ動かすことなく、逐一観察していたシードは青年の顔に浮かぶ色を見てその前に立った。
死を覚悟したらしい青年を見下ろし、彼の命を救った元人間を蹴る。
軍靴の当たった箇所は崩れる―――はずだったのだが、炎は彼をそこまで炭化させることはなかったらしい。
表面だけが僅かに剥がれて崩れ、その奥の生々しい弾力性を失った肉を蹴ってしまい、その不快感にきつく眉を寄せる。

「殺して欲しいか」
崩れることなく人の形を保ったままの、それでいて黒い物体の剣を握る手を踏み付けてその骨を砕き、不意打ちのように物騒極まりない言葉を投げ掛けた。
青年の息を呑む音が聞こえる。
「どのみちその火傷じゃ助からん。今すぐ、適切な処置を施されない限りはな。…せめてもの情けだ。長く苦しまずに済むよう、痛みもなく殺してやる」
好きな方を選べと。
選択肢を与えて返答を待つようにシードは腕を組んだ。
傷の具合を確かめるように青年が己の体へ視線を落とし、体を動かそうとしては苦痛の声をあげた。
折れている骨の数も1本や2本じゃないはずだ。
それにしても、とシードは青年を見下ろす。
現在のおかれている状況にも関わらず随分と冷静だ。
今までの人間はほとんどが何とか逃げようとばかりにもがいていたというのに。
こういう人間は、ある程度まで登り詰めることが出来る者が多い。
少しばかり惜しいと思わないでもないが、所詮は敵兵だ。
「お名前を…教えて頂けますか…」
場違いな質問に、考えごとをしていたシードはとっさに反応出来ずに詰まった。
「あ?…あぁ、シードだ」
一拍の後、漸くその意味を飲み込んで己の名を口にする。
「シード、将軍…貴方が……」
いつの間にか随分有名になったものだと胸中苦笑し、続く青年の言葉を待つ。
「シード将軍…お願い、してもよろしいで、しょうか…」
肋骨が折れているのか、苦しげに声が発せられた。
彼の右足が折れていることは、その不自然に曲がった足を見れば一目で知れる。
折れた足を引き摺り、死体と武具の散乱するこの地を移動するのにどれだけの時間がかかるか。
駐屯地に辿り着くことは困難だろう。
いずれにせよ、死ぬ確率はほぼ100%に近い。
「了承した」
確かに聞いたと。
しっかり頷いて了解してから辺りを見回す。
不審の色を浮かべる青年に、剣の柄を握り締めて少しばかり鞘より抜いて見せれば、中から血と脂に濡れた白刃が姿を現す。
これで人を斬る…ましてや楽に殺すなどという芸当はどんな手練であろうと不可能だ。
こうなれば先ほどまで己がしていたように、刃を力任せに叩き付けて殴り殺すのが関の山。
無論、殴られる側は楽には死ねない。