切実なるただ一つの未来

「これで、決定だな」
声をかけあぐねていたクルガンが、その言葉を見つけるより早くシードが声を発した。
やや俯き加減になっている、その表情は見えない。
沈黙を埋めるように風邪が奏でていたガラスを叩く音がピタリと止まる。まるで赤毛の青年の言葉を待つように。
「この国の民を脅かす皇子をこのままにしておくわけにはいかない」
同時に上げられた顔にはつい10分ほど前よりも明確で強い意志がはっきりと見て取ることが出来。
その強固な意志を崩す術を見つけることがクルガンには出来なかった。
ただ、己の感情を示すような重い溜息を落とすだけ。
「諦めさせるつもりが…却って仇となるとはな」
「お前が読み間違えるなんて珍しい。俺の性格を考慮したつもりだったんだろうが、まだ読みが甘かったな」
そしてつい10分ほど前よりも雄弁に、更に自信に満ちた笑みが浮かぶ。
この相棒を裏切ろうとしたくせにその笑みが、胸に当てられた拳が温かい。
思わず頬が緩みそうになるのを堪え、通告を口にする。
「ジョウイ殿につくということは、皇子を裏切るということなのだぞ」
分かりきっている事を再度告げる。僅かシードの表情が歪む。
「それに、あの少年についたからと言って、皇子を止められる確信もない」
少年の持つ決意の程、全く未知のままの黒き刃の紋章。
皇子の持つ底知れぬ憎悪の程、力の知れない獣の紋章。
不確定要素が多すぎる。どちらとも断定できない。どちらに転んでも不思議はない。
これは一種の賭けなのだ。
寧ろ今ならば…まだルカのほうが優位に見える。
それでも、真の紋章を止めるには同じレベルの…真の紋章をぶつけなければ足りない。
そしてそんな折に現れ、のし上がってきた、真の紋章をその身に宿す少年。
ぶつけるには充分に事足りる。ましてやその少年がルカに憎悪の感情を持っているのならば尚更だ。
表向きは従順だが、ルカと対峙したときの瞳を見れば一目でそれと知れる。
人一番負の感情の匂いを察することに秀でたルカも、当然己に向けられたそれには気付いているはず。
気付き、知りながらも傍に置き、使うのは―――退屈な日常の中に刺激を求める故だろう。

「それでも、何もしないよりはよっぽどマシだろ?」
今のように。時折向けられる、挫折を知らない子どものような無垢な笑顔が痛い。
彼とても挫折や妥協を何度も経験しているだろうに、未だ消えぬその純粋さは一体何処から来るものなのか。
この猛々しい赤毛の青年ほど軍人に似合う者はおらぬと思う一方で、この幼さすら感じさせる赤毛の青年ほど軍人に似合わぬ者はおらぬと思わせられる。
「皇子の命を奪うことが、その最低必要条件だとしても?」
多分、これが最後の確認。最後の警告。
彼にとっては、その身を引き裂かれるにも等しい選択なはず。
刹那。鮮やかな紅が内心の動揺を表すかのように揺れ…瞳が伏せられる。
落ち着かせるかのように何度となく呼吸をくり返し、紅の瞳が現れる。
その中にはもう、動揺の色は見られない。
「いざというときは、胸の一つも貸してくれよな?相棒」
どこか揶揄するような軽い口調。しかしそれが本気を含んだ強がりであることは明らかだ。
だからこそ今はそれに、この笑顔に騙されていてやろうと思う。それを…望んでいることが分かるからこそに。
今はまだその時ではない。彼が強く笑って生きる事を望むというのならば、せめてその時までは。
それが、少しでも彼の痛みを和らげることになるのだから。
「げっ、クルガン!何か拭くもの!」
同僚に背を向けた赤毛の青年は今の儚さはどこへやら、先まで己が飲んでいた紅茶が零れているのを見つけて声を上げた。
窓辺に立つ己へと詰め寄る際、勢い良く立ち上がると同時にカップが倒れたことに気付いていなかったのか。
元より机の方へと体を向け、一部始終を見ていたクルガンが小さく溜息を吐いて壁から背を離す。
ゆっくりとタオルを取りに向かうと「早く!」と急かす声。
何処に何があるのかなど良く知っているのだから、せかすくらいなら自分で取りに行けとも思うがとりあえずは黙っておく。
チェストから取り出したそれを投げ渡し、必死になって拭くのを横目で見ながら簡易キッチンへと向かう。
矢張りというべきか、自分は話をする間一度もカップに口をつけることはなかった。
冷えてしまった己の分と、零してしまった相棒の分。どちらもそれぞれ淹れ直さなければと準備を進める。

「そういやレイシャはどうしたんだ?」
零れた紅茶を拭き終え、冷めた紅茶も片付け。新たに淹れ直したそれを漸く落ち着いて飲みながら、ふとシードが思い出したように尋ねかけた。
クルガンの副官であるレイシャは上官とは逆に、人当たりが柔らかく、優男のように整った顔の青年である。
とはいえ、クルガンの副官を務めるくらいであるから見た目とは裏腹に優秀である。
ただ、あまり戦場に立つタイプではない。
「少し使いを頼んでいる。夕刻までは帰らないだろう」
「ふぅん…」
現時刻は2時過ぎ。帰るまではまだ一刻半ほどある。
慎重なこの男は果たして、己の副官である彼にその決意を話して聞かせたのだろうか。尋ねようとして…止めた。
そんな事を聞くのは野暮だし、また聞くだけ無駄な気がした。
どうせ自分は己の右腕であるジュリアンにこの事を告げはしないのだから。
清々しい風を取り入れるために大きく開け放たれた窓から兵の掛け声と号令が聞こえる。
特に会話を交わすわけでもなく、外界の音を聞きながら紅茶を飲む。

静かに、歯車が噛み合う。また一つ、運命の中に新しい歯車が加わる。
悲しい結末へ向かうため、裏切りと謀殺と血に彩られた幕が上がる。
それぞれが守りたいものを守るため、それぞれが信じた道を進みながら―――。