切実なるただ一つの未来

肩が大きく震えたのが分かった。
穏やかな外界の、僅かガラス一枚通しただけのこの室内は余りに空気が張り詰めすぎている。
クルガンはゆっくりと窓へ向かい、軋む音と共に薄く押し開く。
外に声が漏れないように、しかし充分な風が入るように微妙な位置で手を止めた。
雨上がり特有の、青臭い若葉の匂いが涼やかな風に乗って室内に入り込む。
遠かった小鳥のさえずりがいきなり近くなる。
視線の向かう先にあるカップからは既に湯気は出なくなっていた。
そう時間が過ぎた感覚はなくとも、目の前のそれが何よりも雄弁に時の経過を物語っている。
高まる鼓動を落ち着かせるよう大きく深呼吸をくり返し、拳を握り締める。
そして何かを決意したように、窓辺に立つ同僚を真っ向から見据えた。
「俺に、どうしろというんだ?」
考えを整理し、纏める間たっぷり待ったクルガンは常と変わらず感情を表さぬ、それでいて強い意志を湛えた青灰で紅玉を絡め取る。
「どうしろとも言わん。それはお前が決めることだ…が。俺はジョウイ様についていこうと思っている」
「…っ!?」
主君ではない者に剣を捧げる―――それは既に反旗を翻す行為と同義である。
そして当然、口にするだけでも充分に反逆の意を持つと見なされる。
その言葉を今、この過剰なまでに慎重な同僚は己に打ち明けた。
この言葉には、この行動にはどんな意味が…どんな裏がある?
シードは真意を探るように、相手の動き一つ見逃すまいと息を凝らして真っ向より見つめる。
その様子にクルガンは微苦笑を口許に刻む。
「シード。本当に心中を探ろうとするのならば、そうあからさまに態度に出すな」
しかし追求するかのようなきつい視線は、緩む事もなければ外される事もない。
少しばかり困ったように眉根が寄せられる。
「何も裏などはない。ただ、お前にだけは言っておきたかっただけだ」
その言葉のどこまでが真実なのかは分からない。
ただ、言葉にしてしまった以上、今更取り消すことは出来ない。それだけは事実。
「ルカ様に進言するも、お前の胸の内に秘めるも自由だ」

ルカにこの事を告げれば当然男の命はない。とはいえ黙っていれば同罪になる。
相棒を裏切るか、主君を裏切るか。
普通ならば主君を選ぶのが当たり前。
しかし目の前のこの銀の男は己にとって唯一無二の相棒。ただ一人、背を預けることの出来る人物。
この先、彼以上の相棒に出会うことなどないに違いない。ある意味では恐らく、己の生涯の伴侶なのだ。
失うには余りに大きすぎる。
ましてや今は主君に言いようのない不安を抱いている。

今の己の心境では、どうしても相棒へと気持ちが傾いてしまう。
選ぶのは進言でもなく黙秘でもなく、相棒が敢えて口にしなかった第三の選択肢。
「―――毒を喰らわば皿まで、ってな。仕方ねぇからついていってやるよ」
果たしてどう思ったのか。僅かに片眉を動かしただけの表情から読み取ることは出来ない。
それを狙っていたのか、予想外だったのか。それすらを知る事も出来ない。
とことんまでポーカーフェイスが巧いと思う。
口にしてしまえば、今までの苦しさが嘘だったかのように楽になった。胸につかえていた何かが流れ落ちる。
すっとした、清々しいまでの気分でカップを手に取り、随分と冷たくなってしまった紅茶を飲む。
半端に冷めているのだから味は落ちているはずだが、それでも先より美味しく感じるのだから不思議なものだ。
「何もお前まで反逆者になる必要はあるまい」
相変らず感情を面には出さぬまま腕を組み、軽く窓際に凭れ掛かって静かに諫める。
「この俺以外に、誰がお前の立てた策を実行に移すってんだ?」
己の胸元を親指で差し、にっと不敵な笑みを浮かべる。
無謀な策であろうと己なら実行可能だ。己でなければ不可能だという自信と信頼の混ざり合った笑み。
「それに…」
何かを、恐らくは反論の意を唱えようとしたらしく開かれた相棒の口が、意味を為す言葉を発する前に先制を打つ。
「俺が守りたいのはこのハイランドという国だ。例えこの剣と命を捧げた主君が相手であろうとも…この国に仇為すのであれば俺は反逆者にでもなる。敢えて汚名も被ろう。だがこの国だけは、絶対に滅ぼさせやしない」
きっぱりと澱みなく言い切る。
が、一度『主君』との部分で言葉に詰まったことに気付いたのだろう、男は静かに青灰を隠す。
仲間に引き入れる事を狙っていたわけではなく、本当に一言告げるだけのつもりだったらしい。
今まで同じ歩調で、同じものを見て、同じ道を歩いてきた相棒にだけは伝えておきたかったのだろうか。
これからは異なる歩調で、異なるものを見て、異なる道を歩くと言う事を。
相棒が主君に対し、反抗の念を抱きながらも激しく、狂おしいまでの憧憬と羨望をも同時に抱いている事を知っていたからこそ。

「お前が。決めたことならば俺が口を挟む余地はない。だが一時の激情に流されるな。この程度の義憤ならば時が過ぎれば静まる」
その言葉を聞いた途端、頭にカッと血が昇った。
そんな己を、どこかで冷静に見ている自分がいて。
同時に立ち上がり、次の瞬間には窓際に立つクルガンの胸倉を掴み上げていた。
「この程度?団長の処刑がてめぇにとっては『この程度』のことなのかよっ!?」
突然の行動にも驚きや焦りの色は微塵も見せず、どこまでも落ち着き払っている。
瞼が持ち上げられ、隠れていた青灰がどこまでも冷ややかな色を含んで目の前の紅玉を見下ろし―――その何の感情も見られぬ、人形のガラス玉のような瞳に、シードはぞくっと背に悪寒を走らせる。
組んでいたその腕を解くだけの動きにも、僅か肩を揺らせる己が恨めしい。
微かに呆れの色を宿した瞳がそのシードの動きを捉え、小さく溜息を吐いた。
「…声が大きい。人に聞かれたらどうするつもりだ」
解かれた腕はそのまま僅かに開かれたままの窓を閉める。そして真っ直ぐにシードの視線を絡め取る。
「確かに軍団長に対して皇子の為されたことは不条理だ。しかし今までに俺たちが行った非道の数々に比べれば『この程度』のことに過ぎん」
冷水を浴びせかけられたように瞬時に怒りが静まる。
自分たちは今まで何をやってきた?
戦場で敵兵を殺すのは仕方がない。当然のことだ。それが戦争というもので、それが将である己の仕事なのだから。
だがそれだけではない。この数ヶ月の間に手に掛けたのは決して敵兵だけではない。
何の罪もない、戦争に関係のない老人や女性、多くの子どもも斬った。
それも敵国の人間だけではない。本来なら守るべき自国の民を。何十人となく殺したのではないか。
例え反論の意を唱えたとしようも、それを止めることが出来なかったのは事実であり、ましてや己も殺したとなれば尚のこと。
怒りに任せて男に掴みかかったとき、それを冷静に見ていたのは民を殺した自分。
『シード』という人間ではなく『猛将』という赤い死神。
意識をすれば、腰に下げた剣が格段に重みを増した。
罪のない、守るべき民を殺したことに比べれば、何らかの罰を受けて然るべき彼が処刑されたことくらいは当然のことではないのか?
黙り込んでしまったシードの手をそっと取り、己の胸倉を掴んでいたそれを外して下ろさせる。
先とは逆に、その顔色は病的なまでに白く…。