切実なるただ一つの未来

重苦しく立ち込める暗雲に、心なしか白亜の城壁もくすんで見える。
風も止み、木々のざわめきも届かない。
賑やかにさえずるはずの鳥たちも、近く訪れるであろう雨を嫌ってか、その姿を潜めている。
いつもは活気に溢れた城内が静まり返っているのは、決して暗雲と無音だけのせいではない。
上流貴族の子息である、王国第四軍団長ソロン・ジーが処刑されたことはまだ記憶に新しい。
己よりも軍内で功績を挙げる兄に焦りを覚えたのか。
こと戦場においては功に急ぎ、碌に策も成らぬうちに攻めた中での失態。
辛うじて与えられた、それを拭うための敵陣本拠地での戦い。
それすら敗戦という結果を齎した彼に弁解の余地などあろうはずもなく、あったとしてもそれは敗者の戯言。
聞き入れられようはずがない。
どれだけ理に適った事実を訴えようとも、それが敗者である限り、その事実は言い訳以上のものへと変わる事はない。
度重なる敗戦。それは指揮官の首―――即ち命で贖われる。
されど武将であれば最低限の尊厳を残すとされる。
だが、彼に科せられた処罰は極刑―――斬首。
戦場で生きる者にとって、最も恥辱とされる死罪。
この国の皇子の口からその言葉を聞いたとき、ある思いが胸中を過ぎった。
1つは皇子の決定に対する反感。
親の七光りと嘲笑され、周りから好い顔をされず―――人を纏め動かすのは決して得意ではなかったが。
悪い上官でなかったことは、第四軍に所属する者ならば皆の知るところ。
同盟軍に不穏な空気が目立つ今、無闇に名のある将を失うのは良策とは思えない。
若し、そう意見していれば何らかの処分は受けていただろうが、少なくとも今のように悔やみ、独りよがりをしていることはなかっただろう。
そして今のように、白狼軍の兵に連れられていく、ありありと顔に無念の色を浮かべた最期の姿を思い出す事もなかっただろう。
あの瞬間、胸中を過ぎったのは皇子の言葉へと対する抵抗と、2つ目は―――あろうことか、この国の破滅の予感だった。

漸く雲の切れ間から光が漏れ始める。
それは先ほどまで降り続き、辺りを濡らした水に反射し、目に眩しいほどの光を放つ。
僅かに射し込む光に自然息苦しさも薄れ、涼やかな風がそよぎ始めた。
姿を隠し、息を潜めていた鳥もいつの間にか木々の枝に止まり、耳に姦しいほどの鳴き声が響く。
一歩足を踏み出せばいつものように軍靴と石畳のぶつかる鈍い音は聞こえず、代わりに足元でピシャと水が跳ねた。
木の葉を伝い葉先に溜まり、大きくなった水滴は引き寄せられるように根元の水溜りに波紋を作る。
水滴を落とした細い枝はしなやかに跳ね上がる。
頬を撫で、髪を揺らす風が辺りに撒き散らす、強い雨の香。
つい数分前までまだ薄暗さを残していた視界が、気付けば雲もなく光に満ちている。
足元に広がる白く濡れた石畳がたっぷりの光を跳ね返し、その眩しさに目を眇めた。
歩を進め、水溜りを踏み越えると水面が歪み、そこに映していた画が消える。
軍靴についた水滴を散らして足を止め、シードは明るい空を見上げて小さく鼻を鳴らした。
憎らしいほどに澄み渡った青空。先までの灰が嘘のようだ。
気持ちはいいが気分はいまいち、といったところか。
城門の方へと向かう伝令兵が脇を通り過ぎざま、立ち止まって敬礼するのに短く応じる。
暫しそれを見送り、彼に背を向け―――つまり城内へ向かうべく踵を返した、その先に見慣れた同僚の姿を見つけた。
「珍しいな。昼間っからこんな所でお前に会うとはな」
昼食時は終え、休憩時間もそろそろ終了。
通常ならばこのワーカーホリックのような青年は既に自室で仕事を始めている時間帯である。
だが彼はその軽口に耳を貸すことなく、ちらりと年下の同僚を一瞥した。
「話がある。来い」
「これから仕事じゃねぇの?」
休憩時間はもう10分も残っていない。
クルガンの表情から察するに、短時間で済む話とは思えない。少なくとも半刻はかかりそうだ。
しかし彼は矢張り返事を返すことなく、無言のままさっさと身を翻して城内へと戻っていってしまった。
内容は深刻、それもことは早急を要するらしい。
シードは少しばかり考え込むように頬を掻き―――既に姿の見えない同僚を追って城内へと向かった。

時折兵や文官、女官らとすれ違いながら外回廊を通り、階段を登る。
三階まで登りきってまず、目に飛び込んでくるのは壮大な扉。
つい数日前にこの部屋は主を亡くした―――――第四軍団長の執務室である。
思わず無意識のうちに足を止める。その間にもクルガンは左へ曲がり、己の部屋への道を急ぐ。
当然のこと、後にその部屋に己が入ることなど知る由もなく、緩く首を振ったシードは自室へ向かうときとは反対に曲がった。
クルガンよりもかなり後に続き、どちらも口を利かずに歩き続ける。
そもそも会話をするには距離が開きすぎている。
歩調を緩めぬままに窓へと視線を送る。
ちょうどのこの位置からは屋外訓練場がよく見える。数十人集まっている兵は野外訓練中か。
そんなことをぼんやり考えるうち、部屋の前で漸くクルガンに追いついた。
どうやら自分が追いつくのを待っていたようで、ドアノブに手を掛け押し開いた扉を背で押さえるようにして立って此方を見ている。
何故か気まずいものを感じ、シードはふいと視線を逸らせて開かれたままの扉を潜った。
背後で扉の閉まる音、そして施錠の音に気付いて驚き振り返った。 「クルガン?」
彼は無用心な己と違い、部屋を空けるときは例えどんな短時間であろうと鍵をかける。
だが、就寝時を除き、室内にいる場合に施錠することはまずない。
訝しむように名を呼ぶも、視線の一つもくれずにシードの隣をすり抜け、真っ直ぐに執務机へと向かい、その手前で振り返った。
常には取らぬ態度の連続に、いい加減シードの表情が改まる。
シードの体が僅かに強張り、空気が変わったことに気がついたのか。
クルガンは溜めていた息を一つ吐き出し、ゆっくりと目を閉じた。
「茶でも淹れよう。座っていてくれ」
眼前に立ち尽くす赤毛の同僚へ、その横に備え付けられている来客用のソファを言葉で示しつつ、己は奥の簡易キッチンへと方向を変えた。
一人その場に残されたシードは再び頬の辺りを掻き、ソファへと腰を下ろした。
自分と話をするときに自身の手で茶の用意をするなど、まずないことだ。
…折角晴れたんだがな。
降るのが雨や雪程度ならともかく、槍が降らない事を願って、またしても曇り出してきた空を窓の向こうに見つけて心中呟いた。