気まぐれな運命の悪戯

伸ばそうとした手に何かが当たり、シードは重い瞼を持ち上げた。
目の前には己を眺める男の顔。
「うわっ!?」
突然のことに理解が追いつかず、体を起こそうとしたシードは、己の体が男の腕の中にあることに気付いて頬を引き攣らせた。
下半身の鈍痛とともに、昨夜の記憶が戻ってくる。
「…夢じゃ…なかった、んだな…」
やはり昨日は酔っていたのだろう。
敵軍の軍師に抱かれたなど、夢であったとしても今年一番の悪夢だろうに。
それが現実であったという事実に打ちのめされる。
「あまり動くと落ちますよ」
「いっそ落としてくれ…」
大の男一人寝るのが精一杯のベッドでは、こうして抱き寄せていないと二人寝ることが叶わなかったのだろう。
昨夜の記憶は最後のほうが飛んでいる。
気を失ってそのまま寝てしまったのか。
敵の前で何の警戒もなく眠りこけるなど、一生の不覚だ。
いや、元を辿れば敵に抱かれたことからして一生の不覚か。
「…で、あんたは俺が起きるまで俺の寝顔を見てたわけか…?」
その光景を想像するだけでぞっとするが、一応聞いてみる。
よほどに表情が引き攣っていたのか、おかしそうに男が笑った。
「はい、と言いますか…ワインのような色だと思いまして…」
男の目線を追うように上を見れば、己の前髪が見える。
「…髪か?」
「えぇ。昨日に飲んだものとよく似た色だと」
紅玉のように明るい色の瞳とは異なり、髪の色は室内で見ると案外に暗い。
言われて見れば、今年のワインと似たような色をしているかも知れない。
何のてらいもなく微笑む男の顔を眺めてから、腕より抜け出るかのように体を起こす。
流石にずっと抱きしめられたままというのは遠慮したい。
ベッドの上に座ると、腰と尻の痛みが増した。

果たして馬に乗って帰れるだろうかと溜息混じりに腰をさすると、隣で男も体を起こした。
「体のほうは大丈夫ですか?」
「おかげさまで、一日寝てたくなるくらいに痛ぇよ」
「いえ、そうではなく…」
言葉を濁らせ、男が目を向ける先には3本目のワイン瓶。
確か昨日は2本しか開けてないはずだが、と記憶を探ったところで、嫌な記憶も甦ってきた。
「潤滑剤になるようなものがなかったので…」
「いやっ、それ以上言うな!!」
続きは分かった。微かに記憶にもある。
だが、それを言葉として聞く勇気はなかった。
粘膜はアルコールの吸収率が非常にいい。
それだけに、急性アルコール中毒を起こす可能性も高い。
そのことを心配しているのだろう。
「…それで意識がぶっ飛んだのか…」
幾ら何でも二人でワインを2本。
それと慣れぬ行為とはいえ、その程度で気を失うなどおかしいとは思ったのだ。
「あの…」
「いや…いい…気にすんな…」
頭を抱える様子を見て、謝ろうとするのをシードが押し留める。
何を言ったところで、結局それをシードは受けれたのだ。
彼がそれを謝る理由はどこにもない。
ただ、ちょっと自己嫌悪に陥ってしまっただけだ。
「しかし、あんたがこっちの性癖だったとはな…」
溜息混じりに呟けば、男は少し考えるように首を傾けた。
「そういうわけでもないのですが。普段は女性を相手にすることのほうが多いですし」
意外なことに、見た目ほどストイックというわけではなかったようだ。
確かに顔良し頭良しで金もあるとなれば、女に不自由するようなことはないのだろうが。
大きく溜息をついたシードは、気持ちを入れ替えるように勢いよく頭を上げた。
「やっちまったもんは、今更言っても仕方ねぇしな」
切り替えは大事だ。
軍に入って学んだことの一つでもある。
問題は、気持ちを切り替えたところで体の痛みは軽減してくれないということだが。

「何にしてもそろそろ帰らねぇと…」
時計は脱ぎ捨てられたコートの中だ。
窓の外の太陽の位置からして、まだ朝早いのだろう。
と、そこで窓が閉まっていることに気付く。
確か昨日、この部屋に入ったときに窓を開けたはずだ。
そしてその後、窓を閉めた覚えはない。
とすると自分が気を失った後に男が閉めたのだろう。
逆に考えると、それまでは開いていたということで。
…昨夜、それなりに声を上げた気がするのは自分の思い違いだったということにしておこう。
立ち上がったシードは、椅子の背にかけてある己の服を手に取った。
確か昨日に脱がされ、床に放り捨てられたはずなのだが。
どうやら見た目どおりマメな男なのだろう。
そういえば体の痛み以外、昨夜の行為の名残は全くない。
体に昨夜の残滓が残ったままになっていれば、精神的なダメージは更に大きかったかもしれない。
「…ありがとうな」
「何がですか?」
「いや…」
男に背を向けたままぽつりと呟けば、不思議そうに男が問い返してきた。
それに何でもないと首を振ってから服を順に着て行く。
結局昨日に買ったワインのうち、半分はその日のうちに空けてしまったことになるのか。
帰る前にまた3本ほど買っていこうと考えながらコートを羽織り、ベルトを締める。

「…あんたは帰らないのか?」
素っ裸で寝ていた己と違い、ズボンだけはしっかりと身につけている男を振り返る。
「えぇ…一緒に出て行くのも気まずいでしょう?」
「…まぁ…」
気分の問題だけなのだが、確かに何となく気まずいものがある。
壁に立てかけてある懐剣を懐へ入れ、愛剣を腰に提げる。
「分かってるだろうが、昨日のことは…」
「私の方とて、このようなことは人に言えませんよ」
念押しするように振り返れば、ベッドの端に座ったまま男が苦々しく笑った。
考えてみれば、当然のことだ。
敵将と一晩共に過ごしたなど、自軍の者に言えるはずがない。
互いにそれなりの地位であれば、尚更のこと。
返された言葉に納得しながらきちんと服装を整え、振り返る。
「こちらにはよく来られるのですか?」
じゃあな、と。
言葉を発するより早く、真意の分からぬ問いかけが先になされた。
「あぁ、まぁ…たまに酒を買いに…」
この村はボージョレーヌーボーに限らず、ワイン全般の味がいい。
首を捻りながら曖昧に頷くと、男が微かに笑んだ。
「ではまた…来週、ここで待っております」
「………は?」
言っている意味が分からない。
それは一体どういう意図があってのものなのか。
全く理解は出来ないが…
「…何で来なきゃならねぇんだよ」
まして、この男に会うために。
訳が分からないとばかりにワイン箱を手に、部屋の扉を開けると背後から聞こえてくる忍び笑い。
「貴方の性格からして、きっと来てくれると思いますがね?」
何を根拠に言っているのか分からぬ言葉を背に、シードは部屋の扉を閉めた。