わがままなスリーズ

何やら場にそぐわぬ清涼な香に、深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上した。
分厚い天幕越しの火は眩しさを感じさせることもなく、すんなりと目に馴染む。
薄暗い辺りをゆっくり見回し、香の元へと辿り着いた。
己が転がる、寝心地の悪い寝台の端に座る男だ。
こちらに背を向けているが、微かに宙へと昇る煙がその正体を明らかにしてる。
「なあ、俺も欲しい」
重い腕を伸ばしてくいくいとシャツを引っ張れば、男が如何にも面倒そうにこちらへと顔を向けた。
体の向こうにちらりと白い紙が覗く。こんな時間まで雑務をこなすとはご苦労なことだ。
「気がつくなり第一声がそれか」
「何を言って欲しかったんだよ」
別に何を言おうと俺の勝手だ。
体を反転させ、寝台に両肘をついて上体を持ち上げながら横目に睨む。
呆れた風に肩を竦めたクルガンは、咥えていた煙草をついと俺の口許へと運んで来た。
その仕草が何とも恭しくて気に入ったので、少し首を伸ばしてそれを咥えてやる。
一度大きく肺へと煙を送り込む。
この男にはメンソールが似合う。冷ややかなあたりがそっくりだと思う。
が、生憎俺はハッカやミントといった類が苦手だったりする。
匂いなどは好きなのだが、ハーブはどうにも喉へと行かないのだ。
そんなわけで、このメンソールの煙草も俺の口には合わない様子。
ゆっくりと紫煙を吐き出しながら「やっぱこれは嫌だ」なんて言ってみる。
「なら返せ」
言うが早いが、俺の口にあった細い煙草はクルガンの骨張った指に奪われ、目で追うままにその薄い唇へと戻った。
「…なあ、俺のは?」
再度手の中の紙面へと視線を落とし、紫煙をくゆらせる男の背中を暫し眺めていたが、どうにも口寂しくなって先と同じように、くいくいとシャツをひっぱり尋ねてみる。
「その辺りに落ちてるだろう」
今度は振り返ることもしないままのセリフに軽く口を尖らせながらベッドの下をひょいと覗く。
脱いだそのままに、寝台より離れた場所に赤と白の見慣れたサーコートを見つけるも、この暖かなシーツの中から出る気が起こるはずもなく。
仕方がないから、上半身だけベッドの外に身を乗り出して腕を伸ばす。
が、あと少しというところで届かない。
「よっ!ほっ…と!」
「…何をやっているんだ」
意地でも寝台を下りるつもりはなく、勢いをつけて手を伸ばしながら掛け声をかけていただけなのだが、何やら呆れた風に行動の意を問い掛けられた。
「何って…コートを取ろうと…いててっ!腕つる!」
微妙に筋が捩れて、二の腕に引きつるかのような痛みが一瞬走る。
本当に痛かったのだが溜め息一つで片付けられてしまった。
それでも痛い思いをした甲斐あってか、指先に何とかコートの端が触れて必死で掴む。
「よしっ、取れた…あ!」
「…今度は何なんだ…」
反射的に悲鳴を上げれば、呆れというより諦めに近い声が返される。
「…燐寸が落ちた」
いくら煙草があっても火種がなければ意味がない。
いや、燐寸ならばクルガンとて持っているだろうし、右手に宿す紋章で火をつけることも出来るんだけども。
それでも少しばかり、何となくショックを受けながらもサーコートを回収し、その懐から自分の煙草を一本抜き取る。
と、不意にとある考えが思い浮かんでクルガンの方へと顔を向けた。

取り敢えずは煙草を咥えて、こちらを向いたままのクルガンのシャツをそれでも引っ張る。
「火ィ点けて」
煙草の先端を上へと向ければ、その意味に気付いたらしい。
ためらいやら何やらを一切見せることなく腰を曲げたクルガンは、己が咥える煙草の先に灯る火を、俺の咥えるそれの先へと押しつけた。
ゆっくり静かに息を吐き出し、メンソールの先の火を大きくする。
俺にとっては少し苦い、そして多分こいつにとっては清涼な味のする煙草越しのキス。
普通のキスより少しエロい気がして、火が灯ったにも関わらず、どこか離れるのが勿体なく感じて暫しその状態を楽しむ。
互いの間で仄かに灯るオレンジの炎が大きく小さくなるのが目に楽しい。
ゆっくり名残惜し気に先端を離し、先と同じように煙を肺へと送り込めば慣れた苦みがすんなり細胞に受け入れられるのが分かった。
「そういや何でメンソールなんだ?」
体を起こる様を横目で見つつ尋ねる。
以前から聞こうと思っていたものの、何となく機会がなくて今まで延びてしまったんだけども。
「単に口に合っただけの話さ」
確かにこいつには似合ってる。なんて何度も思ったことをもう一度納得。
「反対に聞こう、シード」
はいはい、何でしょ?
「何故お前はメンソールが駄目なんだ」
―――そうきたか。
何故「吸わない」と何故「駄目なのか」とは似ているようで、その実全然違う。
何故駄目かって、俺は元々ハッカそのものが苦手だし。どうにもハーブ系は俺の体に合いにくいらしい。
でもそう言えば、また子ども扱いされるのは目に見えて分かっている。
それも癪で悔しいから、少なくともこの質問の答えとしては言ってやらない。
さて、そうだな。ならここはメンソールを「吸いたくない」理由でも答えようか。
「だって、メンソールって勃たなくなるって言うだろ?」
流石の知将様にも予想外の答えだったらしい。
いつもと同じように眉が顰められているものの、そこに僅か意外そうな色が混ざっている。
「根拠があんのかどうかは知らねぇけどさ、この年でそれも情けないだろ?」
冗談のようであるが、これでいて結構本気だったりする。
基本的に女遊びが好きであり、こうしてクルガンやら誰やらに抱かれることもある。
こんな娯楽少なく、ストレスのたまる職についている上に、まさに今が盛りの健康な成人男子として性欲が旺盛なのはごく当然のことで。
ましてや俺はそうやって抱いたり抱かれたりすることは好きなのだ。勃たなくなれば大いに困る。
「お前はそういうのを考えたことねぇの?」
「ないな」
ソウデスカ。ならやっぱり根拠なんてのはなくて、ただの下卑た根も葉もない俗説なのだろう。
メンソールは細くて立たないというのにかけたジョークというあれが実際のところか。
考えればこのメンソールを好む男とて、今のところそのような事実は一切ない。
勃たなくなった原因がストレスだって言われた方が余程納得がいく。
貴族の嗜みだか遊びだかは知らないが、こいつはストイックな顔で仕事一本に見せかけて、結構あちこちの女に手を出していやがる。
貴族としてのその営みが出来なくなれば、家に泥を塗ることにもなるのだ。
そんなヘマをやらかすような男ではない。
「つまんねぇの」
それでも尚、割と本気の意を込め、呟きながら持ち上げていた上半身を寝台に押しつけた。
「シード、煙草を咥えたまま俯せになるな」
シーツに顎を乗せて先端を揺らすものだから、時折オレンジが白いシーツに当りかける。
ぼんやりするうちに随分灰も長くなっている。
面倒ながら煙草を離してベッドの外に手を伸ばし、土の上へと灰を落とす。
「シード」
「灰皿を忘れたんだよ」
諫める口調で名を呼ばれ、渋々ながら返事を返した。本当はサーコートの懐に入っているのだが出すのも面倒だ。
この独特のだるさは嫌いどころか寧ろ好きだが、指一本として動かすのが億劫になる。
疲労からくる眠気のせいもあるのだろう。
再度口へと戻した煙草の端を噛みながら、うとうととしかけた耳に何やら落下音が飛び込んで来た。

何の音かと重く下りて来た瞼を持ち上げるより早く後頭部に軽い衝撃。…そうか、今の音はこれだったのか。
大した高さではなかったことと、軽い金属で作られているため痛みはさほどない。
「寝るならきちんと処理しろ」
目の前に落ちた携帯灰皿を手に取る。
慣れぬせいか己のものより開けにくい蓋を持ち上げては咥えていた煙草の火を消し、中に入れる。
蓋を持ち上げた瞬間、微かにハッカの香が鼻腔をくすぐった。
眠気に逆らったついでに動作をもう一つ。
灰皿をクルガンの手に渡した帰りに、がっしりその羽織ったシャツを握り込む。
「お前は寝ないの?そりゃお前は明日も前線には出ねぇけど…」
どうやら夜襲の心配もなさそうだし、ならば明日に備えてさっさと寝るのが得策だ。
「ああ、これに目を通せば寝るさ。眠いなら先に寝ておけ」
なんて言われて髪に口付けられた途端、体から力が抜けて瞼も下りた。
さらりと髪を梳かれる感覚。
あまりの心地よさに、俺が意識を手放すのに10秒もかからなかっただろう。
その僅かな間に、俺はメンソール特有の清涼な香に包まれた。

「メンソールは勃たなくなる」。
シードは意外とこういうのを信じてそう。