天才の努力

扉の開く音が聞こえる。
こんな夜遅くに人が来ることなど滅多にない。
剣を振る手を止めぬままに視線を向けると、そこには何とも珍しい姿。
「お前がこんなとこに来るなんざ珍しい」
「ジュリアンに聞くと、恐らくこちらだと言われてな」
ということは鍛練に来たわけではなく、自分に用があるのか。
キリよく100を数えて手を止め、顎を流れ落ちる汗を肩口で拭う。
流石に腕立ての後の素振りは多少堪える。
疲労を訴える両腕を軽く振って大きく深呼吸。
こちらに歩いてくる相手に体ごと向き直った。
「で、何の用だ?」
「お前が夕方提出した報告書に不備がある」
「…それをここまで言いに来るのか…」
今は倉庫としてしか使われなくなって久しい、古い練習場。
シードは鍛練の時にしか訪れないし、それはクルガンも承知のはず。
がっくり肩を落としながらも男が持っている書類へ手を伸ばすと、それが逃げた。
何だと怪訝な眼差しをクルガンに向けると、踵を返したその手が壁にかけられている剣を握る。
「せっかくだから、少し相手をしてやろう」


ガキッと鈍い音を立てて刃が噛み合う。
ぐ、と身体に引きつけるように力をこめると、自然と青灰の眼が近付く。
「俺さ、別に天才ではないと思うんだよな」
間近で鍔迫り合いをしながら不意に呟けば、青灰の眼に訝しむ色が浮かんだ。
「そりゃ才能はあるんだろうがな。それでも、それなりに体を鍛えて練習もしてる」
それは将軍となった今でも変わらない。
時間は昔ほどなくなってしまったが、こうして夜にたまの時間を見つけては、筋トレや素振りといった最低限の鍛練は欠かしていない。
何故なら天才ではないから。
何もしなくとも強くいられるような、そんな人間ではないから。
「でも天才だとか言われても別に気にならねぇんだが」
人から何と評価されようとあまり気にしないし、必死に努力している姿を見られたくないからこそ、夜にこんな人の来ないところで鍛練をしているのだ。
だからそれはいい。「戦いの天才ですね」などと言われるのは構わない。
そんな風に尊敬されて悪い気はしない。
ただ…
「将軍みたいに天才じゃないですから、とかふざけるなと言いたくなる」
「…というか言っただろう」
「…言った」
僅か目を細め、苛立ち紛れに吐き出した言葉に、今まで黙って聞いていたクルガンが呆れたように呟いた。
今日の昼間の出来事だ。そういえばクルガンもその場にいたか。
重心がずれたのを機に、競り合っていた剣をきつく押しながら背後に大きく跳んで距離を取る。
着地したその足で、すかさず床を蹴って再び間合いを詰める。
胴を大きく薙ぐ刃は、翻った銀で弾かれた。
その手首を返して再度の薙ぎ払い。
先よりも高いそれは、腰を落としたクルガンの頭上の空を切る。
懐から右肩を狙って突き上げられた刃を、半歩下げて半身でやり過ごす。
「手の皮がずる剥けて、ぶっ倒れて意識が飛ぶくらいまで練習してから言えってんだ」
「意識が飛ぶのはやりすぎだ」
腹立たしさを込めて袈裟懸けに振り下ろす刃を、持ち上げた剣で受け止めながらクルガンが溜息を一つ。
「…お前のことだぞ。体を苛め抜くのも大概にしておけ」


結局決着はつかず。
床の上に大の字で寝転がりながら、ゼーゼーと全身で酸素を取り込む。
「だから言っただろう。体を苛めるのも大概にしておけと」
同意を示すように、僅かばかり頷く。
流石に筋トレ、素振りから続けてのクルガンとの手合せはきつかった。
これだけ息切れしたのは久しぶりだ。
不思議なことに、命がけの戦場で剣を振るうより、きっちりと型を守った稽古の方が疲れる。
いかに基礎体力が落ちているかということを実感させられる。
漸く多少呼吸が落ち着いてきたところで、顔に何やら影が落ちた。
影の元凶は一枚の書類。
「明日朝一で提出しろ」
元々の体質もあるのだろうが、何故この男は汗一つかいていないのか。
これではまるで、自分の方が体力がないかのようだ。
それも悔しいので、一度大きく息を吸い込んでから勢いよく体を起こして書類を奪い取った。
「了解」
手にしたそれをざっと眺めてみるも、不備らしい不備は見当たらない。
顔を上げると、既にクルガンは扉を開けて出ていくところ。
もう一度書類に目を落とすも、やはり問題があるようには見えない。
もしかして書類の不備というのはただの口実で、鬱憤晴らしに付き合いに来てくれたのか。
確かに、自ら手合わせを申し出るなど珍しいこともあるものだと思いはしたが。
一人になると、書類を放り出して再び床の上に転がった。
「あー…駄目だ。またちゃんと体力つけるか…」
力なく呟いた言葉が、静まり返った倉庫に響いて消えた。

シードもクルガンも、きっと何もしてないように見えて影で努力するタイプ。
皇子は生まれついての天才。何となくそんなイメージ。
しかし皇子もだけど、クルガンも筋トレをしてるところが想像できない。