紫煙

年頃にはありがちなことだが。俺も多分にその例に漏れなかった。
男でも女でも、悪事に憬れる時期というのはある。
「若気の至り」やら過ちというのは、ほとんどがこの時期のものであろう。
士官学校に入る前だから14、5歳のころか。
毎日のように喧嘩をしたし酒も飲んだ。煙草も吸ったし、初めて女を知ったのもこの頃だったように思う。
品行方正とは口が裂けてもいえないような子どもだった。
今でも喧嘩はするし、酒も女も嗜みとして―――否、一般男性よりも多いくらいか。
唯一減ったのは煙草。
元々周りの悪友に馬鹿にされるのが癪で吸い始め、特に旨いと感じたこともただの一度すらなかった。
士官学校に入ってからは全く吸わなくなった。
好きなわけではなかったし、何より煙草は体力減退に繋がる。
本気で軍に入ることを考えていたから、一も二もなく直ぐに止めた。
軍規で禁止こそされていないものの、上官に見つかれば処罰を受けることも事実だ。
規則として定められていないだけで、それは一種の暗黙の了解。
だからそのような者は基本的に軍にはいない―――はずなのだ、が。

「っで!?」
突如後頭部に衝撃を受け、フェンスの前に立っていたシードの頭がその向こうへと飛び出した。
何が起こったのか、理解するより前にガンガンとその部位が痛み出す。
空いている左手で痛む箇所を押さえ、半眼で振り向くと予想通りの人物が立っていた。
これを見つけたのが上官のソロンや副官のジュリアンならばまず先に怒声が飛んでいただろう。
しかし声よりも先に手が出るということは…そう、同僚であるクルガンくらいのものだ。
「てめ…側面で殴るな!」
「角でなかっただけ有り難いと思え」
己の後頭部を直撃したと思われる、肩へと担がれた辞典並みに分厚い本を指して叫ぶシードを軽く往なしてクルガンは眉を顰めた。
その視線の先はシードの左手―――正確には、その指に挟まれているモノへと注がれている。
「それは禁じられているはずだが?」
「軍規にはねぇ…」
「態々定めるまでもないからな」
言い終える前に被せられた言葉にシードが目を眇め、どこか睨むように、挑むようにクルガンを見据える。
「てめぇも吸ってるだろうが」
無表情だったクルガンに微かに感情の色が覗く。
いつも、というわけではない。週に一本程度だろうか。クルガンは情事の後に時折煙草を口にすることがある。
それはシードと違い、メンソールなのだが当然煙草には違いはなく。勿論他の種類同様、禁じられている。
「お堅い知将様が煙草を吸うなんてな?」
揶揄するように、にぃと笑むシードにカツンと硬質な音を立ててクルガンが足を踏み出す。
そしてフェンスにかかる手から取り上げたそれを、慣れた手つきで己の口へと運んで咥えた。
呆気にとられるシードの前でゆうゆうと紫煙を吐き出し、それは青く澄んだ空へと溶け込んだ。

「ひ、人の煙草を勝手に吸うんじゃねぇ!」
その仕草に、思わず見惚れてしまったシードは微かに耳を朱に染めてその口から奪い返した。
「分かった、吸わなきゃいいんだろっ?」
目の前でこれ見よがしに煙草を咥えたクルガンを睨みつけ、せめてもの反抗のように一度肺に紫煙を充満させてから赤い火の灯る先端部をフェンスに押し付けた。
その向こうへと火の消えた煙草を投げ捨てた瞬間、クルガンの眉が顰められた気もするが知ったことではない。
溜飲の下がった思いすらする。
「別に『止めろ』とは一言も言ってはないが?」
「言ってるようなもんじゃねぇか」
言葉でこそなかったが、あれは遠回しな嫌がらせとしか思えない。
「矢張り口に合わんな」
煙草の臭いが染み込まないよう、脱いでいたサーコートを羽織るシードの後ろでクルガンが己の口唇に軽く触れる。
「俺には薄荷のほうが合わねぇがな」
不服そうに踵を返してクルガンの脇を通り抜ける。

「執務室に戻るのか?」
「あぁ、そろそろ俺の休憩時間は終わりだからな」
「ならこれを俺の部屋に持って行ってくれ」
手渡されたのは己の頭に痛みを与えてくれた書物。
ずっしりとした重みを伝えてくるそれを担ぐように肩に置き、首だけを向けて頭を傾ける。
「もしかして俺を殴るために持ってきたのか?」
こいつならやりかねないと、特に深い意味があったわけではなく尋ねたのだが、どうやら外れたようだ。
心底呆れ果てたと言わんばかりの眼差しが向けられる。
「資料室から戻る途中、ジュリアンにお前が戻ってこないと言われてな」
「ふぅん」
ならばこの本を借りてここへ来たのかと。気のない返事を返して正面に向き直ると再び扉のほうへと足を向けた。
が、またしても足を止めて振り返る。
「…お前は戻らないのか?」
休憩時間であろうが、そうそう書類から離れないのがこの男の常だ。
だからてっきりともに戻るのだと思ったが、本を預けるということはまだ戻る気はないらしい。
「あぁ、少しここで風に当たってから戻る」
「煙草を吸うなよ」
慎重なクルガンのことだから自室以外でそのような事をすることはないだろうが―――人に見つかるというヘマをやらかすとも思えないが―――何となく先ほど注意されたのが悔しくてぽつりと呟く。
するとクルガンが僅かに口の端を持ち上げる。
「シード、覚えておけ。煙草は『吸う』のではなく『喫む』ものだ」
「な!?…ん、んなのどうでもいいだろうが!」
思いもよらぬ反撃を受けて怒鳴り、足音も荒く階下へと去った。
それを喉で薄く笑って見送ると、クルガンは懐から小さな箱を取り出した。
軽く薄い金属で出来た箱の蓋を押し開け、その中に入っていたものを口に咥える。
燐寸を擦り、火が風で消されぬよう手で覆っては顔を近付け―――。
清涼な香と共に細く煙を燻らせた。

こういう関係が好き。というか理想的。

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