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天幕の開く重い音。
一瞬遅れて、濃い血の臭いが鼻に届いた。
「剣の達人は返り血を浴びないって聞いたことあるんだが」
ゆっくりと振り返る。
そこに立っているのは当然、己の相方である男。
いつもと何ら変わりない姿。
ただ…
「あれって絶対嘘だよな」
その全身は、血に赤く染まっていた。


血と泥に汚れたコートの袖で頬の血を拭うと、それはただ伸び広がるだけで。
「血で血を拭っても仕方なかろう」
言われて初めて気付いたかのように汚れた袖口に目をやったシードが、血を拭うことを諦めて手甲を外す。
「失礼します」
声と共に天幕に入ってきたのは、シードの副官であるジュリアン。
その手には湯気の立ち上る湯の入った桶と、真新しいタオル。
「あぁ、そこに置いといてくれ」
「本当に怪我はないんですね?」
「ほんとだってば。全部返り血だ」
傍のサイドボードに桶とタオルを置きながら、念押しするジュリアンにシードが苦笑を返す。
ならいいですけど、と眉を寄せながらジュリアンが天幕を出て行く。

手甲を外し、赤く染まったサーコートを脱いだシードが大きく息を吐き出す。
「こんだけ汚れちゃ、洗っても駄目だろうな…」
脱いだコートをまじまじ眺めて、諦めたようにそれを無造作に地面へ落とした。
血や汗を吸ったコートが重い音を立てる。
「シード。捨てるなら捨てるで、そんなところに捨てるな」
「先に体くらい拭いてもいいだろ?」
インナーをも脱ぎ、同じように地面に落としたシードが背のない椅子へと腰を下ろした。
そして桶の湯で手を洗う。

「で、さっきの話なんだけどさぁ」
シードから視線を外し、再び雑務に戻ろうとしていたクルガンが、背後から聞こえた言葉に小さく嘆息する。
どうやらあれで済んだわけではなかったらしい。
どうしてこの男は、この手の下らない話が好きなのか。
濡らしたタオルを絞る水音と共にシードが言葉を続ける。
「幾ら剣の腕が良くても、あんなのどうしようもないだろ。あ、でもお前もあんまり返り血を浴びないよな」
背後で首を捻るのが見ずとも知れる。
何やら一人で悩んでいるようなので、とりあえずは聞かなかったことにする。
無視して黙々とペンを走らせ続ければ案の定、背後から先よりも大きな声が飛んできた。
「おい、聞いてんのか、クルガン?」
やはり独り言で済ませるつもりはないようだ。
今度は相手の耳にも届くよう、溜息を落としてから背後を見遣る。
「根本的に状況が違う。それは1対1の時の話だ」

シードのように前線で敵に突っ込んでいくような戦い方をしていれば、1対1などあったものではない。
クルガンがあまり返り血を浴びることがないのは、単純に前線に立つことが少ないからだ。
今日のような混戦で、返り血を浴びないほうが難しいに決まっている。
汚れた体を濡れタオルで拭きながら、少しばかり納得したようにシードが頷く。
「あー…そりゃ普通に相手が一人なら、別に返り血なんざかからねぇな」
それも当然斬る場所や、斬り方にも寄るのだが。
ただ言うとまた面倒なので、そのあたりは敢えて黙っておく。
要はシードが納得さえすればいいのだ。
納得したように頷くシードを確認し、クルガンは再び机に向き直る。
どうせこの男は今日の戦果をまとめなどしないだろう。
その仕事をやっているのだから、せめて邪魔はしないでもらいたいものだ。
どうやらその返答はシードにとって満足のいくものだったらしい。
静かになった幕内に、ペンの音と水音だけが響く。


「…しかしやっぱ風呂に入らねぇと、こんだけ汚れちゃ臭いが落ちないな」
己の腕に鼻を近付け、眉を顰めながらシードがぼやく。
その言葉を聞いて、ふと思い出したクルガンが振り返る。
「そういえば何故、あのような混戦になった?」
状況は悪くなかったはずだ。
あのまま進めていれば、もっと手際よく制圧できたはず。
途中でおかしくなったことには気付いたが、背後にいるクルガンのところにその理由が伝わることはなかった。
それはつまり、大した理由ではないということでもあるのだが。
疑問を孕む青灰の視線に、シードがあぁ、と気のない返事を返した。
「俺の傍で戦ってた兵がな、パニックを起こしやがったんだ」
タオルを湯ですすげば、湯が薄い赤茶に濁る。
「…采配ミスだな」
クルガンの目が僅かに細められ、シードを射る。
僅か咎めるようなそれに、タオルを絞りながらシードが肩を竦める。
「若いとはいえ、新卒兵でもないし大丈夫かと思ったんだがな。頭から臓物を被るのはきつかったらしい」
戦争ともいえぬこの程度の争いならばと、比較的若い兵を前線に配置したのだが。
ある程度慣れた者を、もう少し多く前線に配置すべきだったか。
そのパニックが、まだ戦慣れせぬ周囲の兵に伝染してしまったのだ。

「で、その兵は?」
「黙らせる前に斬られた」
確認はしていないが、恐らく死傷者リストの中にその名前があるはずだ。
一瞬見えた感じでは傷は浅かったように思えたが、前線で倒れてしまえば生き残るのは厳しい。
まして混戦だ。
踏まれてしまえば、あとはどうしようもない。
「この程度の戦で慣らさせなきゃどうしようもないんだが…微妙だ」
かといって、前線に出すことがなければ戦に慣れるはずもない。
どの程度の規模の戦で、どの程度の数を、どのように配置するか。
その辺りはかなり微妙だ。
そういった細かい采配はシードの苦手とするところでもある。
「名前は覚えてるか?」
問われ、シードが手を止めて眉を寄せる。
「…べ…ベイ…」
「…あぁ、リストに載ってるな」
必死で思い出そうとするシードが漏らす言葉を聞きながら、リストを眺めてクルガンが小さく呟いた。
ベイから始まる名前は死傷者リストの中に1つしかない。
その名前には大きくバツがつけられている。
それは即ち、死んでいるということ。

「やっぱ若い奴は後方で、戦の空気に慣らすところから始めないと駄目か」
面倒そうに零したシードが、体を拭いていたタオルを桶の中へと放り込んだ。
血と泥に濁った水からは、既に湯気は立ち上っていない。
「首や臓物くらいは慣れてもらわねぇと…」
自身の寝台の上に放り出してあった、新しい服を着ながらシードが一人ぼやく。
「死体に慣れさせたいのならば、戦場跡でも歩かせて来い」
まだ回収しきれていない死体や肉片が、生々しく残っているはずだ。
それが一番安全で、手っ取り早い。
「そうだなぁ…」
考えるように間延びした声を漏らし、寝台に寝転がる。
そして大きな欠伸を一つ。
「まぁ…また明日にでも…」
その言葉は最後まで紡がれることなく寝息に変わった。
疲労は分からないではないが、やはり後処理をすることなくさっさと眠ってしまった同僚にクルガンが溜息を吐く。
このようなやり取りは初めてではない。
明日は早朝にはルルノイエに帰る。
当然部隊編成など行う時間の余裕はないし、城に戻るころには頭から抜け落ちているに決まっている。
「…ジュリアンに伝えておくか」
このやり取りを今後も繰り返すのは、不毛以外の何者でもない。
椅子を立ったクルガンが、何かを諦めたように天幕を出て行った。

戦争後の血みどろと、シビアなシードが書きたかっただけの話。
世間話でもするように、淡々と人の生死を語らせてみたかった。