サンドイッチ症候群

「―――――」
突如嫌な予感に襲われた第4軍団長は、ぴたりと紙面にペンを走らせる手を止めた。
きつく眉根を寄せて、正面の扉へと眼差しを向ける。

僅か10秒後。
回廊を走る音が聞こえたかと思えばだんだんと大きさを増したその足音は、丁度この部屋の前で止まった。
「ソロン様、いますか?」
ノックもなければ礼儀も何もない。そもそも城内をあれほど喧しく騒がしく走る人間は他に居ない。
早くもきりきりと痛み始めた胃の辺りをさすりながら、ソロンは緋の髪の部下を招きいれた。
「ソロン様!何で来週からの遠征はクルガンの隊だけなんですか!?」
入ってくるなり怒鳴られた内容にそのことかと嘆息する。
それにしてもこの態度。
どう考えても舐められているとしか思えないのだが、何度注意をしようと減俸処分を喰らわせようとも改めないのだから、もはやどうしようもない。
まともに取り合えば余計に疲れ、胃が痛むだけなのだからお手上げだ。
ソロンは一番開けやすい、右側の一番上の机の上の抽斗を開ける。
「そのことについては理由を述べただろう。態々お前の隊まで出なくとも片付くし、…?」
今日の朝議にて説明した事を再度繰り返しかけ、何やら怪訝な表情に気付く。
記憶を思い起こし、辿り着いた先は一つの可能性。
「シード。お前今朝の朝議中寝てたな…?」
「え…あ、昨日寝るのが遅くなりまして…」
確信の響きを持って疑いの視線を向ければ、あからさまな動揺をもって視線が逸らされる。
「それが理由になるか」
溜め息をつき、抽斗の一番手前に常備している小瓶を取り出す。
蓋を開けて、中の錠剤を3粒取り出すと口へと放り込み、机の上のコップへと手を伸ばして口をつけた。
この不幸な中間管理職者には欠かせない胃薬である。

「意見を求めたときに発言する機会があっただろうが」
寝ていてどうせ聞いていなかったことは分かりきっているが、ねちねちとしつこくいびってやる。
こいつにはいつも頭を悩まされ、胃を壊されているのだ。これくらいの厭味を言っても許されるであろう。
というより、言わなければ気が済まない。
「だんちょお…」
情けない声が聞こえてくる。
ここで思わず哀れんで、折れるからこいつは成長しないのだろうか。
だから下手に出れば良いのだと舐められているのだろうか。
しつこく厭味を言ってやろうとしたばかりの心は、既にシードの情けなく縋るような声に揺らいでいる。
この辺りがソロンという男のお人好しさを表しているのであろう。
「そもそも何でそこまでして出軍したいんだ?」
キィと軋む音を立てて椅子の上で重心をずらし、机の上に肘を付く。
「何で、って…久しぶりじゃないっすか。久々に剣を振るいたいですし…」
返された答えに矢張り溜め息を一つ。
我儘で幼稚で礼儀も知らない、普段の様子だけ見ていれば何故この男が将軍になどなれたのか疑問であるが―――それはこんなところに由来するのだろう。
剣の上ではこの国の五指に入るであろうし、これでいて人望が厚いから部下も彼を慕う。
それにプラスしてとっさの状況判断に優れ、軍を率いる才にも長けている。
何より、この男は戦いを好む…好戦的である。この国の皇子と同じように。
猛将との二つ名は伊達ではないし、またこれ以上に相応しい二つ名もないと思う。
ソロンは困惑したように、机の上の書類へと目を落とした。
紙面に走る流暢な文字の列。
出軍する本人であるクルガンの署名と印が入ったこの書類に、彼が了承の意を込めて同じく署名、印を押せば彼の出軍はほぼ確実になる。

「…決定事項だ。今更私が異を唱えたくらいではどうにもならん」
何となく居心地の悪い空気が充満し、それを打ち払うかのように放たれたソロンの言葉にシードは不満げでいて、どこか沈痛にも見える表情を浮かべる。
「だから。これを持って直接皇子に談判すればいい」
ひらりと。ソロンが手にしたのは、いまだ彼の署名と印が入らぬ書類。
会議で決定したこととはいえ、書面上で同意はしていない。
つまり場合によっては、最終決断を下し、同意を記すルカを納得させることが出来れば、会議での決定事項をも覆すことが出来る。
目の前に突きつけられた書類にシードは目を瞬かせ、見慣れた相棒の文字の羅列へと目を滑らせた。
相棒の署名、印はあるが、軍団長であるソロンの署名、印は―――まだない。
「本当ですか!?」
それの意味するところを知って、途端シードは顔を輝かせる。ここまで分かりやすい奴もそうそういまい。
シードはルカのお気に入りだ。余程彼の機嫌が悪くない限りは了承されるであろう。
意外と楽に片付いた問題に安心したソロンは、確認するシードに力強く頷く。
と、書類を持つ手首ががっしりと掴まれた。
「シード?」
何事かと部下の名を呼べば、その部下はにっと屈託なく笑う。
「それじゃあ行きましょうか」
「まっ、待て!私は行かんぞ!?」
慌てて腕を振り解こうとするも後の祭り。どちらかといえばひ弱なソロンでは、馬鹿力と名高いシードに敵うはずもなく。
暴れる上官を無視して、シードはずるずると引き摺るようにしてこの国の皇子の部屋へと足を向けた。

「第4軍団長ソロン・ジーと補佐、シードです」
矢張り礼儀などなく、ただしきちんとノックはしてシードは己と上官の名を告げた。
「…入れ」
大抵は即答が返ってくるのだが、今日に関して言えば妙な間があった気がする。
というか、上官を呼び捨てにするとはどういった了見なのか。
いや、相手が更なる上官であるからにはそれでいいのだろうか。
通常ではありえない状況だけに、ぐるぐると取り留めのない事が頭をめぐる。
「失礼します。実は少しばかり頼みたい件があるんですけど」
扉を押し開き、一応礼はするものの、一国の皇子に対するものとは思えぬ気軽さで声をかけた部下を恨めしそうに横目で見ながら溜め息を吐く。
「また珍しい組み合わせで来たものだ。で、頼みたい件とは?」
くっと喉で笑い、笑みを口の端に浮かべたまま問いかけられる。
部下の縋るような眼差しに見つめられ、しぶしぶのようなびくびくのような…複雑な表情を浮かべてソロンはルカへと近寄り、手にしたままの書類を差し出した。
「今朝の朝議にて、次の遠征はクルガンが出軍することに決まったのですが、『今更』になってシードが反論を申し立て致しまして」
一箇所に力をこめ、受け取った書類へと目を通すルカの横顔を恐る恐る眺める。
「その反論とは?」
「久々の出陣なんで、是非とも俺が行きたいんですが」
躊躇いなど微塵も見せず、きっぱりと下らない事を言い切るのがソロンには不安で見ていてはらはらするのだが、ルカはそれこそを気に入っているらしい。
「ほう…。ソロンよ」
こんな奴でも大切な部下。
大丈夫だろうと思いつつ、はらはらと成り行きを不安げに見守っていたソロンは、不意に己の名を呼ばれて背をぴんと伸ばしながら声を上げる。
「は、はいっ」
「一度決定された事柄を部下に泣きつかれて反故に帰すか」
「そ…それは…」
指摘の言葉に思わず固まる。
少し控えたところに立つ部下が不満げなのにも、よく見れば上官の顔に揶揄の色が浮かんでいるのにも気付く余裕はない。
「相変らず人がいいことだな」
意地悪く厭味を言われ、自然頭が下がっていく。
しくしくと胃が痛み始めたころ、何やら紙を破る音が耳に届いた。

驚いて顔を上げれば、ルカの手の中にあった書類が見事半分に破られていた。
「だが、今回は貴様の人の良さに免じてやろう」
この瞬間に最も喜んだのはシードではなくソロンだったに違いない。
「ありがとうございます、ルカ様!」
「こ…この身に余る光栄です…」
純粋に喜んで頭を下げるシードと、感極まったかのように腰を折るソロン。
そんな二人の部下を見遣ってルカは退室を許す。
「ところでソロンよ。覚悟はもう決まっているのか?」
先に部屋を辞したシードに続き扉を潜ろうとしたところで声をかけられ、ソロンはきょとりとして背後を振り返った。
「覚悟、とは?」
何のことかと首を傾けるソロンに向けて、実に愉しそうな笑みが浮かべられる。
「シードが現在溜めている書類と、遠征に出ている間の書類。それは誰へと回る?」
「あ…」
完全に念頭より消え去っていた事実にソロンの顔が青褪める。
「どうせあいつにはまだ話を通していないのであろう?本来出向くはずであったもう一人の部下が、どのような反応を見せるものか」
毒舌この上ない冷酷なもう一人の部下を思い出したソロンは、己に向けられるであろう厭味の数々を思いやり、本日何度目かの胃痛に眩暈を覚えた。

うちのソロン様はこんな感じ。
少なくともこのシードは天然。皇子は当然苛める気満々。