桜前線

ちらちら舞い散る花弁は儚く。
刹那の時を人の心に焼き付ける。


午前三時。草木も眠るといわれるだけあり、町は深い眠りの中。
それは町の中心部に聳え立つ城の内部も例外でなく、夜警の兵とごく僅かな者を除いたほとんどの人間が静かに寝静まっている。
勿論シードもその『ほとんど』に漏れる事無く含まれている。
三階の西側に位置する室内に寝息が響く。
暗いその部屋の隅に何の前触れもなく、不意に夜よりも深い闇が蠢くも当然気付くはずもなく。
辺りに漂うだけであった黒が一点に圧縮され、やがてそれは人の姿を象り始めた。
闇そのものが変化したのか、はたまた闇の中より出てきたものか。
闇という形なきものが消えた後に残るは一人の男。
闇より創られたかのような漆黒の鎧を全身に纏い、その合間より長い金の髪が零れる。
暗い室内を困惑する事無くゆっくりと見回し、ベッドの上で安らかに眠る紅い髪を、色を異とする双眸が捉えた。
どのようにしたものか、甲冑が触れ合う音を立てぬままにベッドの横へ歩み寄った黒の男は、にぃと口の端をゆるりと持ち上げた。

「…ってぇ!!」
然程高さのないベッドの上からでは受身を取ることもままならず、見床で頭を強かに打ちつけたシードは悲鳴をあげた。
何が何だか状況が把握できないながらも、素早く身体を起こして周囲を見回す。
と、己が落ちたのとはベッドを挟んで反対側に立つ姿に気付いてシードは頬を引きつらせた。
全身を覆う漆黒の鎧にも、そこより零れる長い金の髪も、左右で異なる緋と翠の瞳にも見覚えはあり、どこも知らぬ点など一つもない。
…ただそのポーズ一つを除いては。
「て…めぇ何しやがんだっ!?」
右足を持ち上げたその不自然さは、まるでたった今ベッドの上の『何か』を蹴落としたと言わんばかりで。
それに気付いたシードは蹴落とされたことと、その結果真夜中に叩き起こされた事実に怒鳴りつける。
しかし尊大に胸の前で腕を組み、バランス危なげなくゆっくりと上げていた足を下ろした男は、そのような声が届かなかったかのように飄然としている。
口許に意地の悪い笑みが浮かぶだけだ。
暗い闇に漸く目の慣れてきたシードの瞳にそれが映る。
笑みを知覚してもう一度怒鳴りつけようとした矢先、眼前に手が差し出された。
怪訝に眉を顰めたシードは甲冑に包まれたその手を凝視する。
そしてゆっくりと開かれた口唇が放った言葉を聞いてがっくりと脱力した。
「何か酒はないのか」

「ったく…てめぇはアル中か。こんな真夜中にそんなことだけのために…」
欠伸を噛み殺しながらぶつぶつと不機嫌に愚痴りながら、多量の酒瓶が納められた戸棚を探る。
確かに以前、勝手に持って行くなと怒ったのは他でもない自分だが、何もこのような真夜中に起こす必要はないと思う。
ましてや蹴り飛ばした挙句にベッドから落とす必要など…。
いくら熟睡していたとはいえ、気配に気付かなかったのは不覚だった。
せめてもの腹いせに一番質の悪いそれを手にし、仏頂面のまま振り返ってぐいっと差し出す。
「ほらよ。これでいい…」
「駄目だ」
欠伸を漏らしながらの言葉が全て口唇から零れるより早く否定の言葉が被さる。
「透明なのがいい」
何が不満なのかと表情をゆがめるシードに投げかけられた注文。
手の中のものは確かに色がついており、瓶が透明なために一目でそれと知れる。
「我儘ばかり言いやがって…」
言い争うよりも、さっさと注文の品を渡して寝直した方が得策と考え、シードは不愉快に眉根を寄せたまま、今度は透明のものを取り出す。
「ホワイト・リカー。これでいいだろ」
だからさっさと消えろと言わんまでの口調で再度、手の中のものを差し出すシードの態度も気にする事無く、男はそれを受け取る。
「それでよかったらさっさと出て行きやがれ」
まじまじと瓶の中で揺れる液体を見詰めていた男は、しかしシードがベッドに戻ろうと背を向けた途端手を伸ばした。
「………まだ何か用か…?」
がっしりと肘の辺りを掴まれ、他にもまだ何かあるのか半眼で睨みつける。
言葉ではなく、性質の悪い笑みでそれに応じた男は、シードが再び文句を呟く前に転移魔法を発動させた。

何度経験しても慣れることのない、どろりとした肌に纏わりつく不快な闇が消えた次の瞬間、吹いてきた冷たい風に身体を小さく震わせた。
足元の土を踏む感と、絶えることない風が室内ではないことを明確に知らしめている。それもいやに寒い。
少なくともハイランドよりも更に北の地であることは確かだ。
春も終わり、そろそろ夏に入ろうとするハイランドの季節とは違い、この辺りでは漸く春が訪れた頃であろうか。
ハルモニアの北のほうだと考えるのが妥当だろう。
「…何だ?」
聞きたいことは数多くあるものの、とりあえずシードはぽつりと集約した疑問符を零した。
暗い中、目を凝らして見ればどうやら平原らしい。
左手の方に見える森以外に視界を遮るものといえば、ぽつりぽつりと生えた木と岩くらいであろうか。
下を見遣れば踝辺りにまで伸びた草と、その合間に覗く地肌。
そこに落ちているものに気付いてじっと小さなそれを見詰める。
「………」
「ユーバー?」
何やら辺りを見回していた男が不意に踵を返したのに気付いて、シードは訝しむように名を呼びながら同じく背後を振り返り…小さく息を呑んだ。

一体どれほどの年月を生きていたのか。
普通のものを遥かに凌ぐそれは巨木と呼ぶに相応しく、まさに堂々たる風体でそこに立っていた。
聳え立つ根元までには結構な距離があるものの、それを感じさせぬまでの巨大さ。
「…どこだ…?」
さっさと其方へ向かって歩き始めたユーバーの後に仕方なく続き、再度辺りを見回しながら問いかける。
平原の中にただ一本立つ、柔らかな薄紅に彩られた木はあまりに幻想的で。
圧倒されたように半ば呆然としたままシードは正面に眼差しを戻す。
「知らん。前に来たときにあった村が見当たらぬのでな」
この場合の『前』というのは一体何十年、何百年前のことをさすのか。
少なくとも見える範囲にその残骸らしきものはない。
幻想的に、ぽっかりと闇の中に浮かぶ薄紅に近付くにつれ、威圧感にも似たものが感じられ、それは次第に増していく。
樹木まで3メートルといったところで足を止め、改めてそれを仰ぎ見る。
遠くから見ているのとは桁違いの存在感だ。
まるで魅入られたかのように呆けるシードの横にユーバーが無頓着に腰を下ろした。
騒々しいまでの硬質な音に我に返ったシードは、突然座り込んだ男を見下ろす。
「…何してんだ…?」
「見て分からんのか」
馬鹿にしたように鼻で笑ったユーバーは、手にしていた瓶の蓋を開け、直接に口をつけて喉へと流し込んだ。
「人間はこうして桜の木の下で酒を飲むのだろう?」
どうやら花見に強制参加させられたらしいと、この時になってシードは漸くに気付いたのだった。

「まさかお前から夜桜見物に誘われるとはな」
その見物に強制連行してくれた非常識な男に寄りかかりながら、僅か困惑を含ませた声音で零す。
寒さの余り、マントでも剥ぎ取ってやろうとしたのだがそのようなものはなく。
まさか甲冑を剥ぎ取り、あまつさえそれを身につける気が起こるはずもなく、不本意ながら少しでも近寄ることで妥協したのだ。
仮にユーバーが拒絶すれば無理にする気もなかったのだが、ちらりと見ただけで如何にもどうでもいいと言わんばかりの様子であったため、そのまま収まってしまったのだ。
「で、何で透明な酒でなきゃ駄目なんだよ?」
未だに残っている疑問を今度は率直に投げかけてみる。
「知らん。俺はそう聞いただけだからな」
一体誰に聞いたのか…新たな疑問も生じたが、何となく聞くのが怖いので沈黙を決め込む。
そして相手の手から瓶を奪って喉を潤す。
しかしまぁ、確かに花見には色つきのものより、色のないそれの方が合う。
グラスに注いだ酒精の中に、薄紅の花弁の一枚でも浮かべば風流というものであろう。
自分を誘った真意は分からないものの、たまにはこんなのも悪くはないかも知れない。
そういえばこんな綺麗な花だが、その根元には死体が埋まっているという、何ともシュールな話があったか。
桜なぞより余程己とこの男に縁がある。この話をしたらこいつは何を思うだろう。
こんな機会はそうそうないのだ。話してみようか。
軽く回り始めた酒の酔いに、幻想的な桜に酔い。すぐ隣から伝わる仄かな熱に、それを冷ますような風。
その心地の良さにシードは静かに瞳を伏せた。

人外の言動は理解出来ない。