桜散る頃

「桜ももう終わりだな」
窓の向こうに舞うのは白に近しい薄紅の花弁。
強い風が吹くたびに、枝から離れたそれが雪のようにふわりと舞い落ちる。
何とも儚いそれをぼうっと見つめ―――
「現実逃避しないでください」
どすっと重い音を立てて机の上に置かれたのは、どれだけあるのか考えたくもない書類の山。
それでも尚、無視し続けて窓の外を見れば、何の前触れもなく耳を引っ張られた。
「いてててっ!上官に何てことしやがんだっ!」
「上官の務めも果たさずに何が上官ですか!」
上官に対する無礼を咎めれば、有能な副官殿は更なる正論で返してきた。
恨みが込められたかのような力の強さが発する痛みに耐えかねて正面向けば、そこには書類の山が鎮座なさっていた。
目に毒だ。
反射的に目を逸らせば、どこから取り出したとも知れぬハリセンが俺の頭を直撃した。
「今日という今日は、きっちり仕事をしてもらいますからね」
当たろうともほとんど痛みなど感じぬそれを己の手へと打ちつけ、その衝撃からは想像もつかないほどのすさまじい音を立てつつジュリが仁王立ちになる。
「何だよ…1回約束が守れなかったくらいで男がそう…」
「私はあなたのように豪快な男を目指しているわけじゃありませんから」
別に俺とて豪快さを求めているわけじゃない。行動結果が自然そうなってしまうだけであって。
「大体昨日のはあれだろ、俺のせいじゃなくてお前が…」
「シード様のせいです」
「それは八つ当たり…」
「原因はあなたにありますから」
取り付く島がない。どうやら相当ご立腹らしい。
口から幸せを一つ逃がしてから、仕方なしに俺はペンを手に取った。

俺の副官のジュリは昨日の夜、久しぶりに彼女と会う約束をしていたらしい。
勿論そんなことを知る由もない俺は、4時過ぎにジュリの目を盗んでふらりと部屋を出た。
それはいい。いつものことで既に反省する気などさらさらないが、一般的に悪く責められるべきは俺のほうだろう。
それは認めよう。
だが俺が納得いかないのはこの後だ。
碌に仕事もせずに遊び呆けていた俺にそれをさせるべく見張り―――時間を失念、していたそうだ。
気づいたときには約束の時間を一時間以上越えた頃で。
慌てて待ち合わせ場所に向かったものの、当然のようにそこには誰もいなかった、と。
これは俺のせいなのか?時間を失念してたお前の責任だろ。
などとは口が裂けても言えない。何せ今のこいつは鬼気迫っている。
余計なことを言えば、またしてもそのハリセンが俺の頭に突撃してくるに違いない。いや、当たっても痛くはないのだが。
納得はいかないが、俺だって怖いものは怖いし、命だって惜しい。
この恐怖から逃れる方法はただ一つ、一刻も早く、目の前にそびえる山を崩していくことだけだ。
この山を一気に崩すべく、両手を突き出して机の向こうに落としたい衝動に駆られないでもないが、その誘惑を必死で押しとどめるべく理性を総動員させる。
そんなことをすれば待っているのは目も当てられない大惨事だというのは火を見るより明らかだ。

戦場でもかつてないほど真剣にペンを走らせ始めてどれくらい経ったか、そろそろ文字を追う目が疲れ始めた頃にノックの音が来客を告げた。
ふと視線を上げれば、自分の机で仕事をしていたジュリにぎろりと睨まれ、慌てて視線を文面へと戻す。
これほど副官に恐縮する将軍というのは、長いハイランドの歴史を紐解いてみても俺が初めてじゃなかろうか。
優越感ならぬ劣越感にどっぷりと腰の辺りまで浸かり、どことなく虚しさを覚えつつペンを走らせれば、漸くとジュリが立ち上がって扉へと向かう。
「はい」
「シードはいるか」
扉を開ける音の次に聞こえたのは相棒の声。ノックの音からしてそうだろうとは思っていたが。
「えぇ、仕事中ですが」
俺に放ったのとは全く違う声音で澄ましている、その頭を後ろから殴ってやりたい気がしないでもない。
「また珍しい…明日は槍でも降るのではないか」
「槍で済めばいいですけどね」
そう思うのならいい加減止めさせてくれればいいと思う。本心から。
「それでシード様に用とは?」
「ああ、少し確認したいことがあってな」
その手に持たれているのは、もう見たくもなくなった事務の書類。
そうだろうともさ。こいつが仕事以外の用で俺の部屋に来たら、それこそ明日は槍が降る。
「少し変わった葉を買ったのですが、お時間があれば如何ですか?」
「時間ならば問題はない。頂こうか」
「俺も…」
こっそり顔を上げ、ペンを持つ手を挙げれば先と同じようにぎろりと睨まれ、慌てて顔と手を下ろし。
ジュリが小さく溜め息を吐くのが聞こえた。
「その書類が終わったら、こちらへどうぞ」

正直なところ、出陣するよりも疲れた。
口を開くのも億劫なくらいで、ソファにずっしりと深く重く沈みこむ。
「これだけ溜め込んだ仕事を数時間で、か。よく集中力が保ったものだ」
そう、ただただ下を見て仕事をしていたから気付かなかったが、百枚以上はあったはずの書類の山が、日が暮れるころには十数枚を残すだけとなっていた。
これだけ頭を使ったのは生まれて初めてじゃなかろうか。
今日はもうペンを持たないと固く心に誓う。間違いなくまた持つ羽目になるのだが。
「少し確認したら間違いもなく、多少字が読み辛いことを除けばほとんど完璧ですからね」
字が汚くて悪かったな。大体『ほとんど』ってのはなんだ、『ほとんど』ってのは。
この俺様がこれだけ頑張ったんだからパーフェクトに決まってるだろうが。
声にするのも面倒なんで、心の中だけで訴える。
「頭は悪くないのだが、如何せんやる気がないからな」
「それがシード様たる由縁ですけどね」
「…黙って聞いてりゃ二人して…」
流石に黙りかねて顔を上げ、文句を並べ連ねようとして、何とかそれを飲み込んだ。
腹立たしいことに俺のためではなく―――俺の副官のくせしやがって―――クルガンのためにジュリが2人分のティーカップと、何やらパンケーキらしきものが乗った皿を運んできたからだ。
一心不乱に頭から手から目から、いろいろと動かしていたせいで、当然喉も渇いていれば腹も減っている。
知恵熱が出るかと思うほど頭をフル動員させたせいで疲労感の方がでかく、今の今までそんなものを感じもしなかったというのはともあれ。
執務机の前に立っていたクルガンが俺の正面に座るのを見ながら、もぞもぞとソファにちゃんと座ることにする。
寝転がって飲み食いをすればまたジュリに怒られる。
お前は俺の母親か。
「桜の紅茶と桜のだっふわーずです」
机に置かれた白いカップに注がれているのは赤茶の液体。そこに桜の花が一輪浮かんでいる。案外妙なところで気配りをするのがうちの副官殿だ。
でもって、何やら妙な言葉を聞いた気がする。
「だっふわーず?」
「と、いうんだそうです」
クルガンと俺の目の前に置かれた皿の上に乗っているのは…楕円形のブッセに見えるもの。
中に挟まっている、桜色のクリームが桜のクリームなんだろうが。
「お前でも知らないのか」
「初めて聞いた」
ってか、俺の本業は軍人であって菓子職人じゃねぇし。特別菓子に詳しいわけでもねぇし。
「とりあえず…いただきます」
ぽん、と手を合わせてまずは紅茶を口に運ぶ。
早数年、俺の副官をやっているだけあって、温度も甘さも文句がない。
きっとクルガンのはもっと熱くて、砂糖は入ってないんだろう。
「…あ、桜の味だ」
口の中に広がるのは、さくらんぼとは確かに異なる味。
味というほどもないかもしれない仄かな香りがなかなか変わってて面白い。
菓子類はともかく、茶のほうはさっぱり分からないが珍しいんじゃなかろうか。
「なかなかに美味いな」
俺と同じようにそれを口に含んだクルガンが呟くのを聞きながら、一足先に桜のだっふわーずとかいうものへと手を伸ばす。
改めて近くで見ても…矢張りブッセじゃないのか?名が違うだけで結局は同じものだろうかな?
「…ブッセ、だと思うんだが…いや、桜だし美味いけど」
さっきも言ったが、あくまでも俺の本業は軍人であって、菓子職人ではない。
兼業としてもそんなことはしてないし―――って、誰に言ってんだ、俺は。
とにかく、つまり味覚は人並みなのだ。
「別にそれが何であれ、あなたは美味しければいいんでしょう?」
「まぁ、そりゃそうだが」
食に関する仕事についていない奴のほとんどはそうだろうよ。
しかしとにかく、今日は一日ジュリに余計なことは言わないでおくほうが良さそうだ。
明日まで何とか頑張れば何とかなる気がする。…希望的展望に過ぎないが。
とにかく今日を乗り切ることが今一番の課題だ。
「んで、何の用だって?」
2口あれば食べ終わるサイズのそれを食べ終え、粉砂糖のついた指を舐めてから正面へと向き直る。
半端に胃に物を入れると急に空腹を感じるのはどういうことなのか。
腹が凹んでいるように感じるほどの空腹に、胃へと甘い紅茶を押し込んで一先ず力尽くで押さえつけてやる。
「先ほどソロン様より渡されたものだが」
あ、今ちょっとくらりと…知恵熱が…。
暫くは見たくもない書類へと何とか目をむけ、言われたことを必死で頭へと叩き込む。
オーバーヒート気味。脳がゆだったみたいに熱くてくらくらする。
残り数十枚は、脳を騙し騙しこなしていくしかなさそうだ。

結局今日は、本当に一日机に向かって終わった。が、頭がずきずきしている。
仕上がった山を提出して、急いで帰っていったジュリの姿を思い出す。
あいつのことだから、昨日の詫びにきっと今日も会う約束をしただろうと思っていたが…当たりだったようだ。
だから余計に今日は苛立ってたのか。
昨日、約束のことを俺に告げずにいて遅れたというのに、今日もそのことを言わないとはあいつらしい。
しかしまぁ、これで少しは副官孝行が出来たってもんだ。
いつも苦労をかけてんだし、たまにはこれくらいしてやらないと上官としての立場がない。
たまにはちゃんと部下のことも考えてやらないと。おかげで俺はグロッキーだが。
のろのろと枕から顔を上げて窓の外を見る。明日は雨だろうから桜も見納めかもしれない。
今朝、あいつが桜が云々言っていたから―――はっきり覚えているほど真面目に聞いてはなかったが―――おそらくは今頃夜桜見物をしているのだろう。
明日に散るとすればギリギリセーフだ。
窓の向こう、僅かに暗闇に浮かぶ薄紅の花弁を眺めつつ寝たからか、その夜は柔らかく、やんわりふわふわした夢を見た。

頭はいいけどやる気がないのがうちのシード。