presentiment

そろそろ日差しもきつくなってきた。初夏の一歩手前、といったところだろうか。
もう一週間もすればきっとこうして影のない、直射日光の当たる場所にはいられなくなるだろう。
何せ夏は…暑さは大の苦手である。
伸ばした両腕を鳩尾ほどの高さのフェンスに引っ掛け、湿度の高いべたつく風に眉を顰めつつ、視界に映る風景をぼんやり眺める。
何気なく見るその中に、ふと動く影を見つけてその人物へと焦点を合わせる。
と、同時に背後で扉の軋み開く音が聞こえた。こちらへ来る足音からその人物を知る。
「お前の行動範囲は広いのか狭いのか分からんな」
「んー、あのさ、どう思う?」
背後からかけられる声に生返事を返し、そちらを見ることなく顎で己の焦点の先を示す。
怪訝な表情を浮かべたであろう男は、しかし何を問うこともなくフェンスに寄りかかるシードの隣に立つ。
そして眼下へ目を向けた。
この高さからでは顔こそ分からないものの、未だ少年の域を抜け切っていない新米兵士のような体つきと、しかし一般兵とは異なる白い軍服。
それと一つに束ねられた長い金の髪。
僅か半月ほど前に、ミューズ市長であるアナベルを殺してこの国の皇子に取り入った少年、ジョウイ・アトレイド。
いまやハイランド軍でその名を知らぬ者はない。
資料室の窓際に座り本を読み始めた彼は、当然己が観察されていることなど気づいていないであろう。
「さて…どう、とは?」
シードのほうに半ば体を向けたまま、新しい軍服が未だ体に馴染まぬ少年へと視線を投げかける。
「とぼけんなよ、クルガン」
「とぼけたつもりはないが」
フェンスにかけていた手で、その上へと頬杖をついたシードがじろりと相棒を睨み付ける。
返された、どこまでもとぼけた言葉を無視してシードが続ける。
「あれは裏切り者だぜ?皇子もよくよく物好きなことだ」
「あの方が、そういったものを好まれるのは分かっているだろう?」
ジョウイ・アトレイド。元々はハイランドのキャロに住む貴族の息子である。
その彼の所属する少年兵部隊が国の皇子であるルカに襲われ、同盟側へと寝返った。
それはいい。分からないでもない。だが…。
「あいつはその同盟をも裏切った。内心は、内側からこっちを潰そうって魂胆だろうが…発想の良し悪しはともかく、気にくわねぇ」
不快気に表情を歪めてシードが吐き捨てる。
「あちらとて、別にお前に気に入られようなどとは思ってないだろうがな」
さらりと毒気を抜かれる返事に、不満そうにシードがクルガンを横目で再度睨み付ける。
「…んだよ…お前、どっちの味方だ?」
しっとりと汗ばむ陽気のせいか、あまりシードの機嫌はよくないらしい。
ならば部屋で大人しくしておけばいいものを…と呆れたようにクルガンが肩を竦めた。
「別にどちらの味方というわけではない。本当のことを言っただけだ」
「それが腹立つってんだよっ。あいつがまた、ハイランドを裏切ることなんざ子どもでも分かるってもんだ」
「だからこそ、豪胆だと思うのだがな」
小さく呟き、既に空気に馴染んでいる少年を見た。

耳に届いたわずかな呟きに思わずと舌を打つ。
それが分かっているからこそ余計に腹が立つのだ。
ああいったタイプは何をしでかすか分からない。その不透明さに苛立つ。
ミューズ市長であるアナベルを殺す数日前、彼は現在同盟軍にいる幼馴染とともにハイランド軍の駐屯地に忍び込んだ。
それはまあいい。…いや、よくもないのだがそれはまだ許せる。
ただ、偶然同じ時にもう一人、駐屯地へと忍び込んだ男がいた。
「あいつを見てると、あの茄子とか言うペテン師を思い出すんだよ」
ハルモニアの工作員らしいその男の持つ剣に塗られた毒で死に掛けたことは、まだ記憶に新しい。
痺れこそもうないが、浅かったはずの胸部の傷が未だに疼く。
それだけでも腹立たしいというのに、その解毒剤を手に入れるためにクルガンがそのペテン師を逃がしたという、それにますます腹が立つ。
無意識のうちに傷を受けた胸元に手をやれば、何やら隣でひそかに笑う気配がした。
「…何だよ?」
「いや、何ともお前らしい理由だと思ってな。要は八つ当たりか」
「煩い。大体…」
文句を言いかけたシードより早く、茄子ではなくナッシュだが、と付け足せば、タイミングを逃したように数度口をぱくぱくさせ、しかし目を逸らせて低く呻くように一言だけ漏らした。
「とにかく、俺はあの小僧が気に食わねぇんだよ」
その理由が事実だとすれば、この青年のほうが余程に小僧である。
少なくとも態度を見る限りは、10歳近くも年上であるはずのシードのほうが子供に見える。
そこまで考えて、クルガンは己の相棒の精神年齢の低さに溜め息を漏らした。
少し情けなくすらなってくる。…今更といえば今更なのだが。
「何だよ、その表情は?…で、お前はどうなんだよ」
じろりとクルガンの表情を見てにらみつけたシードは、頬杖を解き、ジョウイを指差す。
再度そのほうへと目をやったクルガンは、少しばかり考えるように顎に手をやった。
「まだ話したこともない人物だ、何とも言えんな」
「第一印象でいいから聞かせろよ」
どうにも同意を得たいらしい相手に一瞥をくれ、フェンスに軽く体を預ける。
「…見た目ほど柔ではないだろう。…狐だな」
「狐?」
突如出てきた動物の名にシードが目を瞬かせる。
それからまじまじと遠くの資料室にいる少年を凝視してから不意に笑い出した。
「違いない。狡賢い小型肉食獣、ね。色も同じ金色ときたもんだ」
一通り声を上げて笑い、気が済んだのか、口の端を持ち上げて隣の相棒を見る。
「なかなか巧い、面白い例えをするじゃないか」
くるりと体を反転させ、フェンスに凭れ掛かる。
彼の少年が狐であれば、主君であるルカその人は間違いなく狼であろう。
ならば、主人に忠実で厳格なハーン将軍はドーベルマンあたりであろうか。
それで己の直接の上司であるソロン将軍は頭の形からして玉ネ―――
「……………ぷっ」
丸いネギ科の野菜に上官の顔をつけた奇妙な生物を想像し、おまけにあまりにしっくりくるそのイメージに思わず、耐え切れずに噴き出してしまった。
既にこの赤毛の同僚の奇妙な動向に慣れているクルガンは驚くでもなく、突然噴き出しては必死で笑いを噛み殺そうとしている相棒を、呆れと哀れみを含んだ眼差しで見守る。
そしてそれが治まるのを黙って、ただ小さな溜め息を一つだけついて待つ。
「わ、悪い…つい妙なものを想像して…」
「別に今更、お前の奇行は慣れているからな」
多少苦しそうながら、それでも漸く必死で笑いを治めたらしいシードの謝罪の言葉をさらりと流して腕を組む。
「あのさ、一つ聞いていいか?」
何とか呼吸を整えたシードが、どこか悪戯めいた眼差しを向ける。
「あのガキが狐なら、俺は何なんだ?」

どことなく予想のついていた質問に、クルガンは心中微苦笑を漏らす。
本当に分かりやすい、予想通りの発言をしてくれる。
クルガンへと向けられた視線には、明らかな興味が混ざっている。
「…小型犬だろうかな」
「は?どこがだよ?」
騒がしい。大人しくできない。感情の起伏が激しい。単純。馬鹿に明るい。
瞬時に5つほど出てきて、更に次々と共通点が思い浮かんだ。
が、どれを言っても怒るのは確実なので敢えて答えはしない。
そういえば、我慢が出来ないのも一つの共通点だろうか。
「『猛将』殿ならば…豹などが近しいだろうが」
この上なく不満げだったシードが僅かに反応を見せた。
しかし何を言うでもなく少し考え込むと、閃いたとばかりにクルガンの顔を見た。
「なら差し詰め、お前は蛇ってところか?」
「…そのこころは?」
「冷血」
言い放った直後、素早くシードはその場にしゃがみこんだ。
「…お前も冷静とか言われてるくせに、手ェ出るの早いよな…」
しゃがみこまなければ顔面に直撃したであろう、髪を掠めていったこぶしを見上げながらぽつりと呟けば、軽く握られた拳を戻しつつ、表情一つ変えることなくシードを見下ろす。
「安心しろ。お前にだけだ」
「うわー、嬉しくねぇ特別だ」
棒読み口調で言い放ちながら立ち上がったシードは、顔にかかる前髪を後ろへ流し、巧い例えだと思ったんだがな…などとぼやいた。
「さて、と。そろそろ戻るとするか。…何を熱心に読んでいやがるんだか…」
何気なく資料室のほうへ目を向ければ、先と変わらぬ姿勢で机の上の分厚い本を真剣な表情で読んでいる。
彼の現在の立場は分からないが、客人扱いくらいが妥当な線だろうか。
「あれは兵法について記された本だ。カバーを見れば一目で分かる。お前も知ってるだろう?」
「俺が、んなのを読むわけないだろうが」
「…士官学校の、兵法の授業で用いたはずだが…?」
フェンスから身を乗り出し、そのカバーを確認していたシードが振り返ってクルガンを見、軽く首を傾ける。
「そんなの碌に受けてねぇし」
「…よくそれで将に…そもそもよく卒業できたものだ…」
体を戻しつつ、あっけらかんと返された言葉に珍しくクルガンが言葉を濁す。
「要は実技で成功して、筆記はギリギリでも合格点をもらえりゃいいんだからな」
そんなクルガンの反応など気にすることなく一度大きく伸びをしたシードは、そのまま空を仰いだ。
相変わらず雲一つない晴天である。

確かにあの少年は気に喰わない。が、一兵卒との言葉があまりにそぐわない。
人の上に立つ器だということは直感で知れる。
そういう人物は、多少人を見る目がある者には何故か一目で分かるものなのだ。
ならば、その能力に長けている己が主君は一体何を考えてあの少年を傍へとおいているのだろうか。
答えは当然「暇つぶし」「遊び」であろう。珍しいことではない。
ただ彼の少年を見ているとやけに胸騒ぎがする。それが多分、気に喰わない理由の大部分を占めている。
どうにも落ち着かない。
初めはあの、左手に宿る紋章のせいかと思っていた。だがどうも、そうではないらしいと気付いた。
あの少年自体が不吉な存在だとでもいえばいいか。
迷信どは気にしない。そんなものはいくらでも鼻で笑い飛ばせるが、自分の直感には多少の自信がある。
頭の片隅で鳴り続けている警告音は無視できるほどに小さくない。
この不吉な警告音に気付いているのは自分だけなのだろうか。
果たして己の主君や相棒は、彼の少年に胸騒ぎを覚えないのだろうか。
静かに細く、息を吐き出したシードは何気ない仕草でクルガンを見る。
「そういや、この後の会議のことだが…」
資料室の窓に背を向け、部屋に戻るべく扉の方へ歩を進める。
今はまだ、自分だけの胸に秘めておこう。
何せまだ話したこともない、人となりもよく分からない相手なのだ。下手なことを言うのはまずい。
それまでは今暫く、自分一人の胸にしまっておこう。

うちのシードからして、ジョウイは生理的に受け付けないタイプ。