戦場のメリークリスマス

その瞬間、振るわれた俺の腕は確かに動きを止めていた。

顎から流れ落ちる汗を袖口で拭う。
凍えそうに固まった指先とは裏腹に体は熱くて仕方ない。
荒く、何度も熱の籠った白い息を吐き出す。
頬にべったりと張り付いた血と汗が気持ち悪い。
その不快さに眉を顰めて腕で擦り、汗でへばり付いた前髪をかき上げる。
赤の十字が入った白基調のサーコートは、既に白の部分を十字よりも濃い紅で染められている。
ほとんどは己のものでないが、今も紅を吸い続ける左腕だけが重い。
足元に転がる無数の肉塊を見下ろす。
大量の血がしみこんだ土が黒ずんだ赤に変色している。
頭上に広がる重苦しい曇空を見上げる。
雨でも降り出しそうな雲が灰色に圧し掛かろうとしている。
それらのくすんだ色に、零れるのは白い吐息。

雪の降る冬の最中に生まれたというあの人は、いつも俺に色んな話をしてくれた。
それは楽しかったり、悲しかったり、不思議だったり。
古い物語や、異国の風習であったり。
特に冬にまつわる話の彼の女性はよくしてくれた。
そのせいなのかどうか、俺は冬という季節が好きなのだ。

チリン…

ぴんと張り詰めた空気の中、その静寂を割る、軽やかに澄んだ音が響き渡った。
弾かれたように振り返れた見慣れた顔。
「今の音…」
「お守りか何かだろう」
見遣った先には薄ら白の積もった兵の躯。
小さな鈴をお守りとするのは、そう珍しいことではない。
伸ばされた手が俺の髪に、肩についた雪を払い落とす。
ひらひらと花弁のように舞ったそれは、足元に落ちて土の上の雪と混ざった。
「何時間も、体に雪が積もるほど何をしてるんだ」
戦を終え、その後の雑用も終えてから傷の手当てもせずに俺が戦場の跡地へと戻ることは少なくない。
軍内では優越感に浸っているだの、死者を悼んでるだの。
多くの噂がまことしやかに流れているが、実際のところは自分でも分からない。
多分俺は、単純にこの空間が好きなのだろうと思う。
つい数刻前まで殺し合った場所に物言わぬ躯の転がる寂寥たる眺め。
ぼんやりとしつつ、改めて己の双肩に背負う罪と業の深さに囚われ、潰されそうになる。
戦う理由が虚ろになりゆく中、再び確固とした己の正義を取戻すという…
他人には決して分からないであろう、俺自身にも理解し難い、その衝動。
己の意義を失い不安定に、ただ罪だけが残り堕ちていき。
その中から足掻くようにして無様に立ち上がる甘い責め苦。
どこか狂気にも似た自虐性を呼び起こすために、俺はここに立っている。
特に今日は雪が降っているから。

「俺さ、一瞬躊躇ったんだ」
左腕の暖かく柔らかな浮遊感。
心地良く、腕を包み込む穏やかな水色を見る。
「こう雪が降ってきたのを見た途端、硬直したみたいに腕が止まった」
その隙に斬られたのだと。
直ぐに首を飛ばしたけどなと、紅い髪の男…俺は笑う。
水色の光を放つ銀の髪の男は何も言わない。元々寡黙なのだ。
反対に俺は饒舌になる。
「雪が汚れると思ったんだよな」
真白に空から舞い降りてくる儚いそれは、俺の中であの女性そのもので。
彼女を汚い血の赤で染めたくはなかった。
今日は、特別な日だから。
既に数刻の間で何十人もの命を奪っておきながら、たった一片の雪を汚したくないという。
何とも愚かな感傷。
痛みが消えていき、傷口が塞がりゆくのが分かる。
でも一度紅に染まった服は二度と白になることはない。

「クリスマスって知ってるか?」
痛みの引いた手を軽く動かしながら、俺は目の前に立つ男を見上げる。
「西のほうの国で行われる降誕祭のことだろう」
馬鹿にしているのかとでも言いた気な視線を寄越されて俺は笑う。
確かに元は西で行われている、俺らには何の関連もない一つの行事。
しかし近頃ではハイランドにまで広がりつつある。
お祭好きで、特定の神を持たぬ国。
まして暗いことが続く中で、その様な催し事が国民の間に広がるのは寧ろ当然のことと言えた。
そして今日はその前夜祭の12月24日。
「んじゃあサンタ・クロースってのは?」
「何だ、それは」
歩く辞書と俺が名付けた、この男が知らないことにも矢張り笑う。
クリスマスの前夜、即ち今夜、子どもたちに贈り物を配っていくという赤い外套、白い髭の老人。
「初めて聞いたな」
良い子のところにしか来ないと彼女は言った。
朝起きると枕元に贈り物があって喜んだことはよく覚えている。
まだクリスマスという風習がこの国に広まる前から。
彼女は俺のためにサンタ・クロースの真似事までしていた。

「良い子にしてるとな、鈴の音を鳴らしながらトナカイのそりに乗ってくるんだ」
勘のいいこいつのことだ。
先ほど鈴の音に反応した俺の行動とこの話を直ぐに結びつけるだろう。
勿論サンタ・クロースが来ただなんて思ってはない。
俺は子どもでもなければ、良い子でもない。
サンタ・クロースが…少なくとも俺の周りに…いるとも信じてはない。
それでも雪の降るこの日にな鳴る鈴の音は、俺には特別なものだった。
ちらちらと、少しずつ紅い戦場が白く塗り替えられていく。
「何故、急にそんな話を?」
別に深い意味なんてない。
ただ思い出したから。戯言だと流してくれればいい。
「サンタ・クロースが来たかと思ったんだよ」
何の躊躇いもなく俺の口から出たのはそんな言葉。
恐らくは無邪気な、満面の笑みを浮かべているのだろうことに驚く。
背に当たる瓦礫も冷たく、流石に己の言葉に恥ずかしくなって、照れを隠すように立ち上がった。
赤と白の混ざる戦場。
そろそろ戻ろうかと男を見上げたと同時に、きつく体を抱きすくめられた。

「お前こそ急にどうしたんだよ?」
全く「らしく」ない行動に呆れる。
自分の体に染み付いた血と、男の体に染み付いたシトラスミントの香に眩暈がする。
「城に戻ったらクリスマスを祝おう」
「は?」
俺と同じく現実主義者の男はこのような行事に興味がない。
そもそも城に戻った頃には既に新年目前だ。
訝しむとふっと浮かぶ柔らかな笑み。
急に胸が締め付けられる。
が、俺はそれに気付かない振りをする。
「お前が苦しむ必要はない」
サンタ・クロースは良い子のところにしか来ないから。
人を殺す俺は良い子とは程遠いから。
俺が戦の後で物思いにふけるわけをこいつは知っているから。
だからこの男はそんなことを言い出したのだろう。
それは当たってはないけども、あながち見当違いというわけでもなくて。
俺は素直に頷くことにした。
今日だけは、こうして甘えてみるのも良いと思ったのはきっとクリスマスのせい。
何よりも有り難い贈り物。
静かに目を閉じ、雪のように儚い口付けを甘受した。

しっとり甘めな雰囲気で。