過去と現在の物語

紙面から顔を上げ、ベッドのほうへと目を向ける。
そこにはうつ伏せに寝転がりながら、黙々と本を読み続ける友人の姿。
たまには本でも読んでみろと勧めたのは確かに己だが、それにしても何故この男は人の部屋のベッドの上にいるのだろう。
読む本の表紙に書かれた文字は、それが子ども向けの文学書であることを示している。
有名な物語ではあるが、少なくとも26の軍人が読むものではない。
そもそも、その物語はシードも知っているはずなのだ。
有名だから、というだけではない。
その本は幼いころ、二人してよく読んでいたものなのだ。
なのにこの年になって、何故今更読んでいるのか。
それでも、文字を追う友人の顔は真剣そのもので。
問いかけることも躊躇われて、クルガンは再び仕事に戻るべく、手にした書類へと視線を落とした。

どれくらい経った頃か。
ぱたん、と本を閉じる音でクルガンは再び顔を上げた。
先ほどから進んだ仕事は、書類3枚分。
そのことからしても、本のページ数からしても、大した時間は経ってないだろう。
詰めていた息を吐きながらシードが両腕を頭上に伸ばし、顔を押し付けるようにベッドへと沈み込んだ。
恐らく休憩であろうその体勢を数呼吸分、堪能してからむっくりと顔を上げた。
「久しぶりに読んだけど、やっぱ面白いな」
15年ぶりくらいか?と、決して厚みがあるとはいえない本をひらひら振る。
「それは何よりだ。お前がそれを読んでいる間に、こちらも猛将殿の仕事が大方終わった」
「う…」
本を読んでいる間に、そんなことはすっかり失念していたらしい。
そういえばと言わんばかりの表情でシードが言葉に詰まる。
本当にいつまで経っても子どものような奴だ。
内心呆れながらも、その事実に安堵している自分がいることをクルガンは知っている。
この男は昔から、根本的な部分は何一つ変わっていない。
そのことがクルガンを安心させる。
彼は猛将などという軍人ではなく、シードという己のよく知った幼馴染なのだという事実がひどく嬉しい。

手にしたままの書類をテーブルに置いて、椅子から立ち上がる。
ベッドに転がったままの男の体に覆い被さるようにベッドに手をつけば、体を反転させて仰向けになったシードが楽しそうに笑う。
こういうじゃれあいが好きなところも昔から変わっていない。
いい年をした男二人がじゃれあうなど、傍から見るとおかしなことだということは分かっているのだろうか。
「それで、何でまたそんな懐かしい本を?」
覆い被さったまま問うてみれば、きょとんとしたシードが軽く首を傾ける。
「何か本を読もうと思ったら…ふとこれを思い出してさ。久々に読んでみるかなって」
「私はもう少し、知識となるようなものを読んでほしかったのだがな」
期待するだけ無駄というものか。
頭が悪いわけではないのだが、理解しようとしないのがこの男だ。
勿論、座学に類するものはほとんど嫌いなわけで。
シードの仕事の半分以上はクルガンへ回ってくるのが常のこと。
クルガンとて甘やかしすぎている自覚はあるのだが、弟のような彼に頼まれるとどうも断りきれないのだ。
「どうせそんなの読んでも頭に入んねぇから一緒だって」
あっけらかんと笑いながら、ばっさりシードが切り捨てる。
彼の潔さは好ましいものではあるが、これほどまでに明るく勉強嫌いを宣言されると些か頭が痛む。
「だってほら、昔よく二人してベッドで読んでただろ?だから懐かしくなってさ」
「…なるほど」
だからこの部屋の、ベッドに寝転がって読んでいたのか。
一応彼なりの理由はあったらしい。
ふと気付けば、何故か胸元に押し付けられた本。
それを見やりながら、意図を理解するようにゆっくり目を瞬かせる。
これはもしや、読めということなのだろうか。
体を起こしながら押し付けられた本を受け取る。
果たしてどこで手に入れてきたものなのか、受け取ったそれはまだ新しい。

「この本ってお前が持ってたんだっけ?家を探しても見つからなくてさ」
仕方なく新しく買ったのだと。
呟きながら、シードがごく自然に掛け布に潜り込む。
「待て、シード。ここは私の部屋だ」
真新しいそれを眺めている間の出来事に、窘めるようにクルガンが眉を寄せる。
しかしそれで愁傷に体を起こすシードなど、クルガンの知っているシードではなく。
「当たり前だろ?それより俺の聞いてることに答えろよ」
何を馬鹿なことを言わんばかりの眼差しが、当たり前のように返ってきた。
それも、こちらの非を咎めるかのように、問いの答えを促しながら。
思わず溜め息を落としたクルガンは、完全に聞き流していた先ほどの問いかけを思い返す。
「…あぁ。多分私の家にあるはずだ。捨てた覚えがないからな」
「やっぱそうか。なら今度、お前の家に探しに行くか」
頭の下で組んだ腕を枕にしながら、シードが欠伸交じりに呟いた。
このまま寝てしまいそうなシードの頬を軽く叩く。
「おい、シード。寝るなら自分の部屋に戻れ」
将校用のベッドはセミダブルだ。
一人で寝るには充分な広さだが、二人で寝るには流石に狭い。
まして大の男二人が寝るには窮屈に過ぎる。
頬をぴたぴた叩かれることに、一度は閉じた瞼をシードが億劫そうに持ち上げる。
そして己の頬を叩くその手を掴み、軽く引っ張る。
「いいじゃねぇか。昔はよく一緒に寝ただろ…」
「そういう問題ではない」
男同士とはいえ、弟のような存在であるシードと共に寝ることに嫌悪感は全くない。
ただ、狭いのだ。
だがシードは掴んだ手を離す様子もないし、ましてベッドから出て行く気配もない。
それどころか、今にも寝息を立て始めそうな様子にクルガンが僅かに眉を寄せる。
どうしてこの男はこうも寝るのが早いのだ。
つい今まで普通に話をしていたではないか。
子どもの頃から急に静かになったと思ったら寝ていることがよくある男だったが、そんなところまで変わっていないらしい。
諦めたように嘆息したクルガンが、恐らくは己のために空けられているのであろう空間に体を横たえる。
ごく標準的な体格であるシードと、標準以上の体格を持つクルガンが二人で寝るにはやはり狭い。
寝返りをうつと、そのままベッドから落ちてしまいかねない。
「…どう思われても知らんぞ」
小さく呟いたクルガンが、抱き寄せるようにシードの体に腕を回した。
こうして体を密着させれば、特別狭く感じることもない。
目を閉じたまま、嬉しそうにシードがその体にしがみつく。
「二人きりの時だけだ…」
幼い頃のように、クルガンの体にしがみついたままシードが静かに寝息を立て始めた。

安心しきった様子で眠る幼馴染の姿に、クルガンが僅かに表情を緩める。
初めて一緒に寝たとき、いきなりしがみつかれて、ベッドから落ちてしまうほどに動揺してしまったことを思い出す。
兄弟もなく、友達らしい友達もいなかったクルガンにとって、他人とじゃれあってくっつくことなど想像すら出来なかった。
今でも人の温もりには慣れないが、シードのものだけは別。
幾ら触られても、抱きつかれても、一度として嫌だと感じたことはない。
柔らかく細い髪を撫でてやると、まるで温もりを求めるようにシードが体を寄せてくる。
確かにこの数日で随分と寒くなった。
そのあたりも、シードがここで寝てしまった理由の一つなのだろう。
体温の高いシードが、体温の低い己にくっついていて暖かいのかどうかは、クルガンには謎なのだが。
腕の中の温もりが、クルガンを穏やかな眠りへ誘う。
折角の温もりを離さぬようにしっかりと抱きしめたクルガンは、暖かな眠気に抗うことなく意識を手放した。

親友以上恋人未満な、素でラブラブな幼馴染設定。
たまにはシードに甘いクルガンも…あれ、いつものことのような気がしてきた。