遥かなる先へ

思いのほか霧が深い。森に入るなり濃くなったそれにシードは眉を顰めた。
視界がほとんど利かない。視覚は役立たない。
ついでにいえば水の匂いが強いために嗅覚もあまり利かない。おまけに寒い。
不満を頭の中で数え上げつつ、右手に持った剣を振るう。
飛び掛ってきたそれが断末魔の悲鳴を上げて地に落ちた。羽があった気がするが定かではない。
この霧ではその屍骸すらも黒い物体としか知ることはできない。
「…参ったな…」
どうやら何かのモンスターの縄張りに入り込んでしまったらしい。
それはこちらの様子を窺うようにしてついてくる幾つかの気配と物音、それとやにわに興奮し始めた愛馬の様子からも知れる。
それを宥めるように首筋を叩いて、歩を進ませる。
この程度のモンスターならば目が使えなくとも特に問題はない。4、5匹いるようだがいなせるだろう。
ただ面倒なことに変わりはない。少しでも先を急ぎたい。
そもそも一番困るのは視界が利かないせいで、探し人の影すら見つけられないことだ。
せめてもの救いは、この獣道が途中で枝分かれをほとんど見せていないことか。
「さて、と。どうしたもんかな、…?」
緩やかな風が少しばかり霧を押し流し、白を薄めた。同時に鼻に届く、嗅ぎ慣れた匂い。
人のものとは若干異なるが、間違いなくそれは血だ。それもまだ新しい。
思わずと風上のほうへ目を向ける。
意識を逸らせた隙に飛び掛ってきた影を斬り落とす。続いて2つ、1つ―――都合4つの骸の山を作り上げる。
生憎気が逸れていようと、そう簡単に傷を負わされるほど戦いに不慣れではない。
「…アーリア」
自らが作り上げた骸の山には目もくれず、小さく愛馬の名を呼んで馬首を巡らせれば、彼女はゆっくりとそちらへ歩を進めた。

先が見えないためゆっくりとしか進めないのはもどかしいが、それは己に限ったことではないはず。
そう自らに言い聞かせつつ気配を慎重に探る。
元々普段から気配を断っている人だけに探しにくくて仕方ない。
ただ何度か吹いた風で霧は薄くなりつつあるし、つい先ほどに鮮血の匂いの元と思われるキメラの屍骸も見つけた。
微かな気配に左手の方へと目をやれば、白い景色の中、深い蒼が見えた。
白くぼやけてはいるもののその色には覚えがある。
ほっとして歩を速めさせ近づいたところで―――先に声をかけなかったことを後悔した。
「―――っ…」
「何だ、貴様か」
ゆるりとシードのほうへ顔を向けながらルカが事もなく言った。
シードは落ちていく数本の己の髪を視界の端に収め、僅かに引きつった笑みを浮かべる。
「ご冗談を…。ずっと気付いておられたでしょう…?」
存在を隠す必要もなかったために気配を消してはいなかった。
それに気付かないほど気を抜くなどということがこの人に限ってあるはずがない。
ギリ、と耳の横で噛み合う金属の音を聞きつつ言葉を返せば、低く喉で笑う声と共に鋭い刃が引かれた。
細く息を吐き出して肩から力を抜く。
「相変わらず、なかなかいい反射神経をしている」
「ありがとうございます」
褒めの言葉を複雑な心境で受け取って、とっさに腰から抜いた剣を鞘へと収める。
あまりに突然のことで力を受け流し損ねたために右腕が少し痺れている。
もし受け止め損なっていたら、首の半分はちぎれていたことだろう。
「ジルか?」
痺れを取るように数度、手を握り開きしているところに問いを向けられる。
「はい。偶然出掛けるところを見かけられたらしく…」
更にその後、偶然彼女に出会ったシードが護衛を頼まれた。
正直なところ、はっきり言ってしまえばこの人に護衛は必要ないと思う。
ルカは一国の皇子でありながら、彼の師であるハーンと1、2位を争う剣の腕である。当然シードよりも強い。
だが万が一もありえる。
ルカの妹であるジルが危惧するのはこの点であろうが、実際に剣を合わせ、身を持ってその強さを実感しているシードとすれば万が一すらないのではないかと思える。
それでもこうして来たのは皇女命令だからというよりは、彼女の想いが分かるし、確かに一国の皇子が一人で出歩くのはどうかと思うからである。
「ふん、余計なことを」
大して表情を変えることなく、ただ小さく鼻を鳴らしたルカは、まるでそこにシードがいないかのように馬首を巡らせた。
彼を乗せた白馬はゆっくりと歩を進める。
己の存在などないかのように振舞われながらも、シードは躊躇うことなくその後に己の愛馬を続かせる。
あれは存在を許可しているのだということは分かっている。
いつの間にか、ずいぶんと霧が晴れていた。

あまり人が来ないせいか、この森の辺りにはモンスターが多くいる。
それだけならば構わないのだが、増えすぎると人里へ出てきて危害を加えるので、周期的に討伐隊を送り込む。
時折自らも参加するのでこの森のことはそれなりに知っているつもりだったが、これほど奥にまで入り込んだことはない。
モンスターの種類も随分と変わってきたのを確認しつつ、シードは周囲を見回した。
他の動物などと同じく、モンスターとて弱いものは多く個体が存在するためによく見かけるが、強いものとなるとその数は格段に減る。
このあたりに来てめっきり遭遇しなくなったのは、つまりモンスターの質が変わっているということだろう。
いつもこの人は、一人でこんなところに来ているのだろうか、と思う。
道なき道を進む後姿からは判別できないが…来慣れているのだろう。
他の者が気付いているのかどうかは知らないが、彼は時折深夜に外出する。
そして帰って来た時には全身に血の匂いを纏っているのだ。
可能性は高い。
彼が自分と似ていると思うのはこういう時だ。どこまでも戦うことが好きなのだ。
かくいうシード自身、夜に城を抜け出すことも少なくはない。
シードが好きなのはあくまでも戦うこと。
それを求める場が戦場であるために人を殺しはするが、それは結果でしかない。
つまり戦う相手はモンスターでも構わない。そう思うからこそ、長く戦争がなければ城を抜け出したりもする。
己と彼が違う点は、シードが求めるものは経過、つまり戦うことであるのに対して彼が求めるのは結果、つまり相手の死である。
尤も、そのような違いの境界線というのはあやふやではないかと最近思わないでもない。
ぼんやりと取り留めのない事を考え続け、方向感覚がなくなってきた頃に愛馬、アーリアがその足を止めた。
それで漸くと我に返る。
彼女が前を行く白馬に倣って足を止めてくれなければ突っ込んでいるところだった。
どうにも彼と2人でいるといつも似たようなことを考えてしまうとバツ悪く感じつつ前方の背を見遣る。
どうやら前は崖らしい。果たして道を間違えたのかと軽く眉を寄せたところへ名を呼ばれた。

「今のこの国をどう見る」
不意打ちのように投げかけられた言葉に動揺する。質問の真意が見えない。
足場のないそこを見下ろしたままの後姿に目を向けながら悩む。
多少不本意ではあるが、まさか文官やクルガンがするような返答を望んでいるわけでないことは明らかだ。
適していると思われる言葉が見つからないまま、長く沈黙するわけにも行かず仕方なしに口を開く。
「多少ハルモニアの手の上にある気がしないでもないですが、当面は順調かと。未だ財政のほうは苦しいですが、民に然程の不満があるわけでもなく、全体的に見て迅速に対処すべき問題もない今は安定状態にあるように感じますが」
北国であるが故に、どうしても農作物の出来は悪い。他の国に比べると昔からその点で財政に大きな差が出てくる。
それが問題といえば問題ではあるが、それは以前からのことであり、いまさら重大というようには思えない。
ゆっくりと、言葉を慎重に選びつつ告げた内容に、しかしルカが低く喉で笑った。
「相変わらず欲がないな。貴様らしいといえばそれまでか」
矢張り真意は掴めない。『欲』とは何を示しているのか。
「半分。およそ半分の貴族どもは領土を望んでいる。今のこの国は狭いとな」
漸く薄らと話が見えてきた。
貴族に限らず軍人にも言えることだが、革新派と保守派が存在する。
以前に締結した休戦協定。それを結ぶ際にも議論になった。
そのときは、これ以上無駄に民を疲弊させるわけにはいなかいとの理由で保守派の意見が通ったが、必ずしも全員がこの協定に納得しているわけではない。
そのときに反論した、まだ年若い貴族や軍人、あるいは貪欲な年寄りたちが領土を広げるべく戦争を求めているということか。
「貴様は確か、休戦協定に賛成していたな?」
「…俺にとって何より大切なのはこの国と、そこに住む者たちです。彼らがそれを望まぬのであれば、俺にとって戦争をする理由はありませんので」
「分かりやすい奴だ」
相変わらず、この人の自分に対する言葉は褒められているのか貶されているのか、理解に苦しむところだ。
「『あれ』が手に入れば民は喜ぶと思わぬか?」
指差す先は崖の下。己の位置からは見えない。
軽く手綱を引いてアーリアをルカの乗る馬へと並ばせ、眼下を見下ろし―――息を呑んだ。

そこに広がるのは壮大な大地。ジョウストン同盟国。
あの森の奥にこのような場所があるとは思いも寄らなかった。
崖の険しさや高さからして到底降りることは叶わない。一種の境界線か。
「多くの者が望むのはあれだ。充分な作物を作れる肥沃な土と広大な大地だ」
隣から聞こえる声は興味がないのか、どこか下らなさそうでもある。
ゆっくりと顔を上げてその黒の瞳を見据える。
「これを…俺に見せてどうするつもりですか…?」
戦争を起こそうとしているのだろうか。
この人が望むものはあの土地などではない。戦争によって流される血だ。
「見せる?貴様が勝手についてきただけであろう?」
半分は正しいが、半分は嘘だ。その証拠に彼の口許には薄い笑みが浮かんでいる。
もう一度、崖の下へと目を向ける。
あの土地を得るためには戦争で勝つしかないことくらいは分かっている。
僅か意識を逸らせた、シードの眼前に銀の光が過ぎった。眉間に突きつけられた切っ先に息を詰める。
「シード」
一度名を呼ばれる。続く言葉は、ない。
正直ずるいと思う。
眉間に突きつけられたこの剣は、どんな返答をしようと大人しく引かれる。
それが分かるくらいに、今までこの人のことを見てきた。この剣はただ、発破をかけているだけ。
それにこの人は分かっている。己が返すであろう返答を。そのくせ時々、こうしてその意を確かめる。
俺が、その決意を変えてはいないかと。
そんなところがずるい。
こんな風に、何かにかこつける必要などないというのに。
「俺はただ、貴方に従うまでです。戦争を望まれるのであれば、俺は駒となり、剣となりましょう」
戦うことは嫌いでない。それも、勝てば民のためになるというのであれば文句はない。
ましてや他ならぬ彼が望むことであれば、どこに反論する理由があるだろう。
剣の向こうに見える笑みが、どこか満足そうに見えるのは目の錯覚なんだろうかな、とか。
それでも嬉しく感じるあたり、俺はつくづくこの人に毒されているのかも知れない。

皇子は夜中、頻繁に城を抜け出してる気がしてならない。