儚き幻想の残す夢跡

あの人は―――哀れだった。
哀れで、孤独で、儚く。
そして誰よりも気高く、美しかった。
一番の加害者でありながら、一番の被害者であったように思う。
例え、どれだけ冷徹で傲慢で、残忍であろうとも。


矢が一斉に放たれた。
それらは的確に彼の率いる白狼軍を射抜き、また彼自身にも傷を負わせる。
次々と襲いくる同盟軍。
たった一人で立ち向かう人。
何度名を呼び、出て行こうとしたことか。
何度この剣を抜き、彼を助けに行こうとしたことか。
その衝動を押さえてくれたのは最も信頼する相棒。
名を呼ぼうとする口を塞ぎ、飛び出そうとする体を押さえ、剣を抜こうとする手を掴んだ。
自分は彼を裏切ったのだ。
この国を、ハイランドを守るために彼を裏切ったのだ。
それでも炎を起こし、剣を振り。
その度に増えていく傷に胸が痛んだ。

「くそっ…!!」
数多くの手練と戦い、傷を負ったルカは一言吐き捨てて森を奥へと進んだ。
この距離から、夜目でも分かるほどの深い傷。
「クルガン」
「あぁ…」
同盟軍がルカを追って行ったのを見届け、その後を追う。
見つかってはまずいので、かなりの距離を空けていたのだが。
道標のように続く紅い印に道を違える事はなかった。
不意に気の合間から微かな光が見えた。
「蛍か…」
ルカの呟きが聞こえるほど近くにいながら、何故か同盟軍の姿は見えない。
不審さに気配を殺し、辺りに神経を向ける。
「このようなもの…」
光がルカの手の中に消える。
その手に力が入り、開かれる。
「ふん…虫ケラになど殺すほどの価値もないか」
ふわりと手の中から淡い光が飛び出した。

これが好きだった。
誰にも分からない、皮肉や傲慢の中に隠された優しさ。
狂皇子と呼び、恐れる中で、一体何人の人がその優しさに気付いたろう。
誰もが我侭と蔑んだ言葉に隠されていた優しさに―――。

ルカの持つ木彫りのお守りの中から次々と蛍が飛び出していく。
その時の彼の顔は狂皇子などではなく。
ただ一人の孤独な男だった。
血を流しながら佇む闇の中を蛍が飛び回る。
それは悲しく、儚く、何より美しい幻想。

「矢を放て!!」
突如、静寂を打ち破るかのような声が響いた。
声のする方を向き、同時に放たれた無数の矢がルカの体を貫く。
「―――ッ!!」
思わず声を上げようとするのを大きな手に阻まれた。
縋るように手の主を見ても、どうしようもないと緩く首を振るだけ。
目を戻すと、彼は同盟軍の盟主である少年と対峙していた。
これ以上見ているのが限界に思えて顔を逸らす。
すると耳元で囁かれた。

―――目を逸らすな。
―――あの方の最期を見届けるのが我々の義務だ、と。

そう囁く冷たい青灰の瞳は真っ直ぐにルカを見据えていた。
キ…ンと一際高い音。
その音に慌てて目を戻すと、狂皇子と呼ばれたその人は片膝をついていた。
体中に、多量の矢を生やしながら。
その手には二つに折れた、彼の愛剣。
「ついに剣も折れ、それを振るう力も尽きたか・・・」
ずきりと胸が痛む。
誰よりも気高かった皇子の最期。
彼が少年と何かを話している。
だがそれは聞こえない。
音として耳に入ってきても、声として頭は理解できない。
「おれは!」
最後の力を振り絞り、立ち上がって叫ぶのが頭に入ってくる。
「おれが想うまま、おれが望むまま!邪悪であったぞ!!」

ぐらりと彼の体が傾ぐ。
その瞬間、全てがゆっくりだった。
満足げに、誇り高く言い放った彼が、倒れる直前に。
こちらを見た気がしたのは、果たして自分の見間違いだったのか。
視線が絡み、微笑んだ気がしたのは都合の良い幻だったのか。
やがて彼の体は重い音を立て、その場に倒れた。
ハイランドの狂皇子と呼ばれた男の最期だった。

震える。訳もなく、体が震える。
その体を支えるように背後に立つクルガンが、視界の端に見慣れた姿を見つけた。
ジョウイとレオン。
この計画を練った2人。
少年はともかく、軍師はこちらに気付いたらしく横目で見て来た。
腕の中で震える赤毛の青年を一瞥して去って行く。
クルガンは黙ってルカに目をやった。
軍師と思しき黒い長髪の男が盟主である少年に何かを話し掛けている。
首を振る少年に姉という少女と傭兵崩れの二人、フリックとビクトールが言葉を紡ぐ。
それでようやく納得したように頷いて、同盟軍の連中はルカに背を向けた。

彼らの姿が見えなくなり、気配も感じられなくなって。
シードはルカへと歩み寄った。
クルガンも後ろに続く。
倒れるルカの横にしゃがみこんだシードはそっとルカの体に手をかけ、上半身を起こし。
自らの腕に抱え込んだ。
「申し訳、ございません」
血のついた顔を己の手で拭いながら呟く。
自らの手が、服が汚れるのも気にせずに。
「本当に、申し訳ございませんでした。ルカ様」
返事など返ってくるはずもなく、それでも懺悔するかのように続ける。
「貴方を裏切りました。この国を守るという大義名分のもとに…」
淡々としていた言葉が、進むごとに苦しげなものへと変わっていく。
抱く手に力が篭もる。
「俺は、ただハイランドさえ守ればいいと思っていました。何を犠牲にしようとも」
そして今回の犠牲は貴方。
「でも…俺は今、初めて後悔してます。この国を守れたというのに…」
このハイランドを含めた、全世界を狂気の色に染めようとした狂皇子。
「やはり俺は、貴方についていくべきだったのかも知れない」
自分の心のままに戦い、殺し続け、全てを憎んだ人。
「例え貴方やジョウイ様に殺されることになろうとも、貴方と共にあるべきだった」
血の気の失せたルカの頬に雫が落ちた。

「なぁ、クルガン。俺の選択は間違ってたのかな」
頬を伝う涙を拭うことすらせず、尋ねる。
その手はルカの体に刺さる、無数の矢を抜き続けている。
「今まで後悔なんかしなかったのに―――何でこんなに辛いんだ?」
ハイランドを守るため、多くの人を殺し、仲間も死んで。
この手で多くの命を奪い、奪われ。
多くの死を見てきた。
なのに何故。
この人の死だけがこんなにも辛い?
「悪くないよな?確かに残酷だったけど、それでもいい人だったよな?」
何も常に狂皇子であったわけではない。
共に話し、酒を飲み、笑って―――。
他の者が聞いたら信じられないかも知れない。
でも少なくとも自分達の前では、普通に国を想い、普通に生活を送る彼もいたのだ。
「俺はこの人に憧れてたから」
「―――俺も、この人には憧れていた。しかし、だからこそ後悔はせん」
好きだったからこそ、この死を無駄にはさせない。
例え死に導いたのが自分だったとしても。

「…クルガン。一つ頼んでいいか?」
「本来ならしてはいけないのだがな」
頼み事を聞く前に溜め息をつく。
それでも今回だけは特別だから。
「流水の紋章よ」
左手の甲が熱を持つ。
白い手袋の下から青い光が漏れる。
左手を傷だらけのルカへと添える。
「母なる海」
見る見る間に無数の傷が消えていく。
やがて完治したのを見てとると、シードは懐から短剣を取り出し一房、ルカの髪を切った。
「埋葬も出来ないから。せめて俺らで、な」
皇子であるにも関わらず、皇家の墓に入ることはおろか、埋葬すら許されるのは我慢できない。
ルカの額に敬愛の意を込めて口付けたシードは、ルカに背を向けた。
振り返らずに去って行くシードに、クルガンはルカに冥福を祈って彼に並んだ。

―――願わくは…次こそは彼に幸あらんことを…

シード、クルガン視点からの皇子の最期。