6.逃げずに向き合う勇気を

署名欄にサインをしたところで顔を挙げ、机の上の時計へと目をやれば短針は6を、長針は4を少し越えたところにあった。
「少し早いがそろそろ切り上げるか」
「珍しいですね」
壁にかかった時計も当然同時刻、6時21分を示している。
普段は夕食を食べる直前まで仕事をしているので今日は10分ほど早いか。
「丁度キリがいいのでな、たまにはいいだろう」
心を落ち着かせるかのような、いつもの柔らかな笑みを浮かべたレイシャが小さく頷く。
「ではお先に失礼させて頂きます」
書類をまとめ、己の机から立ったレイシャが部屋から出て行こうとして、しかし扉を出たところで立ち止まった。
「シード将軍」
どうしたのか、と問いかけるより早くその口から発せられた名に小さく息を吐く。
「シード、フライングだ」
「10分くらい気にすんなって。あ、ご苦労さん」
くすくすと笑い、一礼して食堂の方へと向かうレイシャへひらりと手を振って労いの言葉をかけたシードが入れ替わりに室内に入ってくる。
「フライングはスタート地点に戻ってやり直し、若しくは退場だぞ」
「冗談だろ?」
揶揄うように扉の外を指差せば、シードが扉を閉めつつ肩を竦めた。
「…何時見ても女みたいな奴だ」
ぼそりといつもと同じ言葉でレイシャを評してからシードはごく当然のように、応接用の3人掛けソファへと腰を下ろした。

「で、何の用だ」
机の上に散らかったままの書類やらペンやらを片付けながら尋ねれば、何とも珍しいことにそわそわと、座っているのが居た堪れないかのように視線を落とした。
常にない態度に、しかしそれゆえに来た理由が分かった気がして細々としたものを片付ける手を止めた。
大きな執務机を回り、机を挟んでシードの座る前に位置する1人用のソファに座る。
「大事な話があるんだろう」
ぴくりと肩を揺らしたシードは、僅かな逡巡の後こくりと小さく頷いた。
こういうときは先にこちらが口を開いてやらないと、いつもの賑やかさが嘘のようにこのまま延々と黙り続けるのだ。
「一週間後のことだな?」
さらに水を向けてやるともう一度肩を揺らし、観念したかのようにゆるゆると肯定の意に首を振って躊躇いがちに口を開いた。
「ほんとに…実行するのか…?」
「当然だろう?でなければ何のためにあのような面倒な事をしたと?」
呆れたように問いかければシードの顔が苦しげに歪んだ。
真っ直ぐなこいつでは欠片ほども考え付かなかったであろう策。
「でも…やっぱり俺は承服しかねる…。こんなやり方…」
「―――他に…手段がないのだから仕方なかろう」
既に賽は振られている。後は待つだけ。
今更…何をいったところでそれをやり直す術はない。時間を巻き戻すことなどできないのだから。
諦めろと告げればその顔が俯く。

この国の皇子、ルカ・ブライトが皇王になって一ヶ月ほどが経ったが、その間に分かったことがある。
彼はジョウストンを滅ぼした後、必ず次はトラン共和国、若しくはハルモニアへと攻め込もうとするだろう。
トランはともかく、今のハイランドがあのハルモニアに勝てる確率などゼロに等しい。
仮に奇跡が起きて勝つことがあろうとも、彼は最終的に自らの国、このハイランドをも滅ぼす。
それでは困るのだ。
正直なところを言えば、どこに戦争を仕掛けてくれようとそれは一向に構わない。
だがその結果、或いはその後にでもハイランドが滅びることだけは何としても避けたい。
現状でそのような方法があるとすれば、それを行おうとする人物、即ち皇王ルカ・ブライトに死んでもらう他ない。
そのためにレオン・シルバーバーグの練った策を実行した。
彼がジョウストンへ夜襲をかける日を、敵方へと知らせたのだ。
実際に彼へと死を与えるのはジョウストンの同盟軍。
それで体裁を保ち、裏切ったという事実を隠すことができる。
シードから見れば卑怯以外の何者でもない手段。
ハイランドを守るためなら主君を裏切る事も辞さないだろうが…彼からすれば、絶対に納得をする事の出来ない相談なのだ。
だが既に、ルカが夜襲をかける日は知らせた。あとは向こうがそれを信じるかどうか。
だが向こうの軍師とてマッシュ・シルバーバーグの弟子だ。何らかの策は立てるだろう。
知らせた情報が罠である可能性も考慮に入れた上で、しかしそれでもこの機会を逃そうとするはずがあるまい。
しかし何処までも真っ直ぐなシードにとって卑怯な手段をとるというのは裏切りの汚名を被ること以上に耐え難いことのはずなのだ。

「それでも…この国を守りたいのだろう…?」
静かに問いかければ三度肩を揺らし、微かに頷いてからそっと顔を上げた。
「そのためには彼が邪魔な事も分かるだろう?」
おずおずと視線を合わせ、ゆっくりと、しかし大きく頷く。
「他に…あの方を止める方法がない。裏切るのなら…目を逸らすな」
裏切っておきながらその手段が卑怯だと非難し、逃げることのほうが余程に卑怯だろう?
「真っ直ぐ見据える勇気が足りなくとも私がいる。お前を支えてやる」
今まで何度となくシードに助けられた。その事を彼は知っているのだろうか。
―――否、知らない、気付いていないだろう。それは彼にとっては当然の行為なのだから。
そんなふうに自然に助けることは出来ない。でも支えることくらいなら出来る。
「私が、ずっとお前を支えてやる」
せめて少しだけでも楽にしてやりたい。
この存在が、少しでも彼の勇気になる事を…心より願おう。

皇子裏切る前の話。
皇子に傾倒してるシードが彼を裏切るまでの葛藤を書くのはとても楽しい。
幼馴染み設定でのクルガン氏は完全にシード至上主義者。