2.君に出会う事が運命だというのなら

いつものように読んでいた本から顔を上げて、脇の窓へと目を向ける。
眼下を走っていく一人の少年の姿。今日で丁度一週間、毎日この時間に見かける。
少年ならば見ることはよくある。
だから当然普通ならば大して気にも留めなかったであろうが…彼の髪は今まで見た事もないような鮮やかな赤。
それが酷く印象的だった。

―――5歳くらい、かな。
初めて見た日から8日目。窓枠に頬杖をつきながら、向こうのほうから走ってくる少年を目で追う。
じっといつものように、家と家の間の路地に姿を消すまで見つめようとして…目を瞬いた。
勢いよく走っていた少年が足を止めたのだ。
今までには一度もなかったことで、彼が足を止めた場所はまさに今、自分の家の前。
どうしたのだろうかと頬杖を解いて、開け放った窓から少し首を出したところで少年が上を向いた。
思いがけず視線がぶつかって、息を呑んだ。
赤色の、長めの前髪の合間からこちらを見てくるのは、その鮮やかな髪の中にあって尚色彩を失わぬ紅の瞳。
思いのほか線が細い。毎日この炎天下の中走り回っている割に肌の色も白い。
紅玉をはめ込んだかのような大きな双眸はどこか柔らかさを含んでいて―――実は少女だったのだろうかと、その瞬間思った。
「なあ、あんたさ」
その口が開かれ、やや舌っ足らずな声が聞こえて…目を丸くした。
彼―――彼女…?―――は上を向いているのだから声をかけられたのは自分のほかにないのだが、あまりに思いがけない出来事に一瞬呆けてしまった。
しかし彼―――彼女―――は気にすることなく言葉を続ける。
「いつもそこにいるけど、そとであそばないのか?」
たどたどしい言葉で紡がれた内容に再度呆然とする。
「そんなとこでみてないで、いっしょにあそぼうぜ」
にっと屈託なく向けられた笑みは、記憶にある限り恐らく初めて他人から向けられるもので。
「で、でも僕は…」
「あした、にほんえんじゅでまってるからな!」
こちらの言う事を全く聞かず、時間すらも告げずに満面の笑みを浮かべた―――口調からして―――少年は、大きく手を振っていつも姿を消すのと同じ路地へと走って行った。
「二本、槐…」
言葉の通り2本の槐が立つ、町外れにある広場の名前だ。正式な名前もあるのだろうが、誰もがそう呼んでいる。
赤毛の少年が去って行った路地へと向けていた視線を室内へと戻し、小さな机に乗った本を見る。
この時間は毎日勉強をしている。
父親が早くに死んでいるので女手一つで育てられてきた。
母親は自分に文官となって城に勤めて欲しいと思っているし、また自分自身も恩返しの意を込めつつ彼女のその願いを叶えたいと思う。
少しくらいサボったところで問題はないと思う。問題はそれを見た母が何と思うかだ。
二本槐の方へと目を向けたクルガンは、困ったように眉を顰めた。

夕食後、2階の自室へと戻ってきたクルガンは本棚の中から一冊の薄い本を取り出した。
内容があまりにくだらなかったために、数ページ読んで投げ出したものだ。
この本の存在を思い出したのは夕食時。明日どうするべきか考えているときに頭を過ぎった。
運命やら宿命やらというのがこの本のもっぱらの話題だったはず。
くだらないとはいえ、随分と薄い本だから1時間とかからずに読めるだろう。
椅子に座り、以前に読んだ場所を開いたクルガンは、しかし少し考えてから一番初めのページへと戻った。
時折欠伸が漏れてくるほどに面白みのない本をじっくりと読む。
抽象的な言葉の羅列にうんざりするも、ふと何かが頭に引っ掛かった。
その箇所を数行戻ってゆっくりと読み直していく。
曰く、直感は信じろと。要約すれば意味もないようなたった一言。
縁というのは奇妙なものだと。こと、人と人とを結ぶ縁は重要なのだと。
果たして彼にそのようなものを感じたのかどうかは分からない。
ただ、あの鮮烈なまでの赤に惹かれたといえばそれだけのこと。
それでも、その赤に惹かれたこと事態が直感だとするのなら。
「明日、二本槐で…」
彼は時間すら言わなかった…否、きっと言い忘れただけなのだろう。
本当に明日、そこにいるのだろうか。時間も分からないのに?
馬鹿げてるとは思う。信じるほうがどうかしてるのかも知れない。
でも明日行かなければ2度と会えないような気がする。そんなはずもないのに。
矢張りこれが直感なのだろうか。縁なのだろうか。
そんなことは分からない。
でも彼が会えば何かが大きく変わる気がする。これは…直感なんだろうか。
ならば明日、自分は彼に会いに行くべきなのだろう。
いつも本を読んでいる時間…日中は母親は仕事に出ている。暗くなる前に帰ってくれば見つからないだろう。
初めて感じた直感というものに、クルガンは口許に笑みを浮かべた。

いつも彼を見かける10分ほど前にそっと家を出た。
勉強をサボって遊びに行くのは初めてだったが、罪悪感よりも昂揚感の方が強かった。
二本槐に行くには、彼が入る路地を行けば近い。
昨日彼がそうしたように、家を出てから2階の窓を見上げてみる。
当然誰もいない。
大きく息を吸い込んで走り出す。路地に入れば途端に視界が狭まった。ここを真っ直ぐに抜ければ二本槐に着く。
好奇心の強そうな彼はあちこち見ながらここを走るのだろうか。同じものを見ようと壁に目を向ける。
否、きっと彼はただ前だけを見ているのだろう。わき目を振る事もなく、真っ直ぐに前だけを見て―――。
狭い路地を抜ければ視界が広がり、2本の大きな槐の木が目に入った。
ところどころに同い年くらいの子どもが遊んでいる。
その中をぐるりと見るも、あの目立つ赤はない。
乱れた息を整えながら、少しばかりの不安を感じてもう一度広場を見回す。矢張りその姿はない。
と、不意に背中を叩かれた。驚いて振り返れば、路地から抜けたそこに立つのはあの少年。
思っていたよりもずっと小さい。年下だろうとは思ったが…どれくらい年下なのだろうか。
「いつもまどのなかにいたやつだ。ちゃんときたんだな」
にっと昨日と同じ、屈託のない笑みに偉そうな口調。
「おれはシードだ。おまえは?」
大人の真似をするように左手を差し出しながら名乗る仕草が、その幼さにはあまりに不似合いで、そのくせあまりに尊大で。
思わず笑いそうになるのを堪えて左手で、その小さく柔らかな左手を握る。
「クルガンだ。よろしく、シード」
皇国の双璧、知将猛将と並び将されるようになるのは、この16年後のことである。

平民幼馴染み設定での出会い編。クルガン視点